(62)

62 男衆が西流の山笠を舁いて、移動を始めた。
「橋の上に向かうばいっ」
ニコジさんが叫んだ。
「並べ、並べっ、皆の衆、橋の上をふさいで並べ」
1000人の男衆がズラリと、東中島橋から西中島橋までを覆った。
山笠の台の上から、ニコジさんが正朝に向かって叫んだ。
「ディーラーの兄ちゃんには、楽しましぇてもらったばってん。こぎゃん恩返ししかしきらん。さぁ、男衆が立ちふさがっておる。はよ背後に回っち、逃げなっしゃい」
正朝は立ちふさがる男たちの背後の橋の上へ向かった。
「オイサッ、皆の衆」
ニコジさんが山笠の上から男衆に声をあげた。
「東流の、ここが今年の廻り止めたいっ」
オォーッと半纏姿の男衆がいっせいにニコジさんに応えた。
橋の上に居並んだ1000人を超す男衆が、睨みをきかせた。
正朝とミソンが男衆の背後を駆けて行く。ニコジさんが赤い鉄砲で指揮をした。
「動くなちゃ、誰も通しゅなちゃ。さぁ、祝い唄じゃぁーっ」
応えて男衆は博多祝い唄を手拍子に載せていっせいに合唱した。
「♪祝いめでたの、若松さまよ、若松さまよ。枝も栄ゆりゃ、葉も繁る(しゅげる)。エーイーショウエー、エーイーショウエー、ショーエ、ショーエ、(ア)ションガネ、アレワイサソ、エーサーソー エー、ションガネ♪」
刺客たちは男衆の前を、ただウロウロとするだけだった。
男衆の列に刃を抜いて突進すれば、1000人の男衆に取り囲まれて袋だたきに遭うだろう。
―ありがとう、ニコジさん、ゴリさん。だがここから、どうする。
そのときだった、橋の下、川面から声が聞こえた。
「おーい。武内しゃんとね。こっちばい、こっちばい」
川面を見ると、一艘の漁船が浮かんでいた。
「お初にお目にかかるったいね。俺は松尾隆史の父親の松尾智則っちゅー漁師ばい。さっき息子の隆史から携帯電話に連絡のあったけん。博多湾に向かう船ば出してくれっち言うてな。そん娘しゃんを博多湾を航行して、韓国まで届ければよかとね?」
緊迫した状況で、のんびりとした松尾智則の口調だった。
タオルで鉢巻きをし、緑色の漁師服を着ている。髭の剃り残しもあった。
「お嬢しゃん、飛び降りんしゃい。おじしゃんが受け止めてあばるばってん」
東中島橋から博多川までは5メートルほどはあるだろうか。
山笠の男衆の歌声は、まだ続いていた。
「♪こちの座敷は、祝いの座敷、祝いの座敷、鶴と亀とが、舞い遊ぶ。エーイーショウエー、エーイーショウエー、ショーエ、ショーエ、(ア)ションガネ、アレワイサソ、エーサーソー エー、ションガネ♪」
正朝は言った。
「ミソン、飛べるか。飛べ。今はそれしかない」
ミソンを橋の上に抱き上げると、正朝は漁船の上で待つ松尾智則の腕をめがけて、ミソンの身を躍らせた。
「きゃぁーっ」
ミソンは橋から落下したが、松尾智則は見事にその身体を受け止めた。
男衆の歌声は止まなかった。
「♪こちのお庭に、お井戸を掘れば、お井戸を掘れば、水は若水、金が湧く。エーイーショウエー、エーイーショウエー、ショーエ、ショーエ、(ア)ションガネ、アレワイサソ、エーサーソー エー、ションガネ♪」
正朝は漁船の上のミソンに声を掛けた。
「あとは、その人を信じるんだ。博多湾の向こうは玄界灘、そして日本海。その先には韓国の島がある。亡命しろ、ミソン。そして家族を取り戻すんだ」
漁船はゆっくりと博多湾に向かって航行を始めた。
「あっ、ありがとごじゃいます。わ、わたし……」
ミソンの声はそこから聞こえなかった。
ミソンは両手を口に当てて、正朝に何かを言っていたが、漁船のエンジン音にかき消されて、それ以上は正朝には聞こえなかった。
「ミソーン。幸せに、幸せになれよーっ」
正朝のその声も、たぶんもうミソンには聞こえないのだろう。船は遠ざかっていく。
「♪さても見事な、櫛田の銀杏(ぎなん)、櫛田の銀杏、枝も栄ゆりゃ、葉も繁る……♪」
―生きている。俺は今、生きている。やり遂げたんだ。ミソンを送り届けた。あとはミソンの運命を祈るしかない。
しばらく橋の上から遠く博多湾の先を見つめていた正朝だった。
ニコジさんは山笠の上から降りたらしく姿は見つけられなかった。
正朝は、男衆の背後を壁にして、天神の街へと向かった。