第二話 「二人でひとり」(43)

湯島が火事からの復興を進めている。
湯島天神の梅は咲きそろい、昼はうぐいすの鳴き声も響こうかという湯島の町である。
駕篭宿の唐独楽屋も家屋は焼け落ちた。それでも女将のお多岐は焼け跡に掛け小屋をしつらえた。焼け野原には駕篭を並べて、その駕篭が客を江戸市中のあちらこちらに運んでゆく。火事の多い江戸では珍しい光景ではない。
素早く商売に復帰するのが江戸っ子の気っ風である。そうした気っ風を買う了見を持つのも、また江戸っ子の真情である。駕籠かきの足自慢たちもぼんやりとはしていない。
「えぇ駕篭」「ほぃ駕篭」「旦那ぁ、駕篭はいかがでござんしょう」
遠出に歩く往来の人たちに威勢よく声をかけては、客引きに余念がない。
そんな仲間たちから外れて、火災の及ばなかった三組町の居酒屋「ひょうたん」に唐独楽屋の駕籠かき、守蔵と伸兵衛の姿があった。昼餉である。
守蔵は、さよりの刺身と、菜の花と蕗のとうの味噌和えを口に運んでいる。
伸兵衛は里芋の煮っ転がしを箸でうまくつまめずに、おたおたとしている。
丼には白い飯。味噌汁はしじみの具に散らし葱が浮かんでいる。
女将のお多岐は、二人に言った。
「お前ぃさんたちは、円朝師匠のお名指し駕篭だろ。師匠はいまごろはこの近く黒門亭の昼席で、お得意の怪談噺でも語っておいでだ。高座がはねると、次は大川を渡って本所の満川亭へお出かけだよ。その前に、腹ごしらえしておいで」
二人は昼餉代をお多岐からもらって、ひょうたんの店前の縁台に腰かけた次第である。
守蔵は菜の花を、蕗のとうをも、皿に残した。さよりの刺身もわずかばかりだが残した。
「ねぇ、兄ぃ。身体の具合ぇでも悪ぃのかい」
「別にどこも悪かぁねぇよ。いまでも駆け出せって言われりゃ五町ばかり息もつかずに駆け抜けてみせらぁ」
「じゃあ、どうしてそれっぱかしの、おかずを残すんだい」
「んなぁことも分からねぇのかお前ぇは。江戸の空の下にゃあ、今日を食って生きていきたくても仕事にあぶれたり、身体ぁ壊したりして、食うに食えねぇお人がごまんといらぁ。そうした困っている人たちのためによ、お助け小屋があらぁな」
「うん、御上があっちこっちの町木戸んところに建てて、食べ物や寒さしのぎの着物なんかを配っているってぇ、あれだろう」
「そうよ。御上がまかない飯の炊き出しをするがな。惣菜まで、そう贅沢なものぁ支度できねぇ。せいぜいが梅干し、味噌、ごま塩か海苔の半丈もありゃあ、おありがとう様ってんで、お助け小屋に並ぶ人たちは頭ぁ下げなくちゃならねぇ」
「うん、そんなもんだって聞いたことぁあらぁ」
「そこでよ、伸兵衛。こうした居酒屋や煮売り屋、一膳飯屋で、お客が残していった惣菜のきれいなところを集めてよ。そのお助け小屋に集まる人たちに、ほんのわずかでも、口に入ったらありがてぇってぇ惣菜がよ。配られるってぇ仕組みになっているんだい」
「それじゃぁ、兄ぃが残した、さよりの刺身は」
「刺身のままじゃぁ腐っちまう。他の客や他の店で余った魚とよ、併せて醤油で煮付けて煮魚だぃ」
「菜の花と蕗のとうの味噌和えは」
「おぅ、これも他の味噌和え料理と混ぜてよ。竹の皮に包んで一人前の惣菜へ化粧直しってぇ寸法よぅ。どっかの困っている誰か様の口に入るとなりゃ、俺の箸で汚すわけにゃぁいかねぇやい。こうして小皿の脇へよ、きれいに並べて、これはお助け小屋のために、わざと残したもんでございますとよ。店の者に分かるように残すのが江戸っ子よぅ」
「さすが兄ぃは江戸っ子だね。すべてお見通しってわけだ。そこいくと俺なんざぁさぁ。江戸っ子じゃぁねぇもん。知らなかったよ、そんなこと」
「伸兵衛っ、手前ぇっちは、どこの生まれだったかぃ」
「俺ぁ下総の浦安村の生まれだもん。十四のときにさ、江戸で働きてぇもんだと思って、そいで江戸へ出て来た身の上だもん。兄ぃのような江戸っ子とは、出来が違うや」
伸兵衛はうつむいて、小皿のなかの里芋の煮っ転がしをつまもうとして、箸を滑らせた。
「馬鹿野郎っ、そんな見当違ぇだから、手前ぇは江戸っ子になりそこなうんだいっ」
守蔵は、伸兵衛の頭を手のひらでぴしゃりとはたいた。そして早口にまくし立てた。
「いいかっ、江戸っ子ってぇのは生まれ落ちることじゃぁねぇんだ。することなんだ」
「す、すること。することって何だい」
「江戸っ子らしく生きることよ。人様のものは盗らねぇ。人様を押しのけてまで先へなんぞぁ行こうとはしねぇ。細ぇ路地で人様とばったり出くわしゃぁ、どうぞ、どうぞと道を譲る。金は稼いだら、手前ぇんところで貯めとかねぇで、使っちまう。そうすりゃ金は天下の回りものよ。回り回って、また手前ぇんところへ戻ってくらぁ。何より大事なのは、人様が困っていたら手をさしのべる。見ず知らずの人でもな。これが江戸っ子よぅ。やい伸兵衛、生まれがどうとかじゃねぇんだ。江戸っ子を通したかったら、江戸っ子をするんだぃ。そうすりゃ手前ぇも立派な江戸っ子ってぇもんよ」
「そ、そうかい兄ぃ。俺も江戸っ子になれんのかぃ」
「当たり前ぇじゃぁねぇか。この天下の江戸の空の下で、何のために駕篭をかついでやがる。人様の、いまは円朝師匠のおためを思うからじゃねぇか。人様のために生きる。そうした了見になりゃぁ、伸兵衛っ。手前ぇも一人前の江戸っ子よぅ」
「う、うん。そうかぁ。そいじゃぁ、俺も腹ぁ減ってるけど、この里芋の煮っ転がしを三粒ばかし、残そうっと」
二人が居酒屋ひょうたんの店前の縁台で、とにやかくや言い合っているところへ、太鼓の音が聞こえてきた。
デンデン、デテケ、デテケ、デテケ、デテケ、デテケ……デンデン。
寄席の、はね。つまりは終演を知らせる追い出しと呼ばれる太鼓の音である。
「おぅ、伸兵衛。黒門亭がはねたようだぜ。円朝師匠を迎えに行かなくちゃならねぇ」
守蔵が立ち上がった。
「お代は、ここへ置いていくよ」
守蔵が縁台の脇に、銭を置く。伸兵衛は自分が残した里芋の煮っ転がしの三粒を、まだ惜しそうに見つめ、ぎゅっと目をつぶって、ぶんっと頭を振り、守蔵のあとを追いかけた。
春は名のみの寒風が、伸兵衛の背中に冷たく吹いた。
湯島からは東南東へ十町余り、神田川のほとりの柳原の土手にも春の寒風は吹いていた。
まして和泉橋の下ともなれば、川風が吹き込んでますます寒い。
それでも捨吉は待っていた。鍋の火加減をみている。今宵の夕餉は楽しみ鍋だ。
楽しみ鍋とは聞こえはいいが、川岸で摘んだ菜や、拾ってきた魚の頭や、居酒屋で捨てられた鶏肉のつくねや里芋やごぼうのしっぽなどをごった煮にした鍋である。