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1 カジノ店『シャトー』の外は雪だった。
ちぎった綿のような雪が、博多区中洲の街に降っていた。冬とはいえ福岡に雪は珍しい。
2月3日。それほどにこの冬は寒かった。
福岡は九州の日本海側に面している。降るとなれば、豪雪になる。
中州の狭い路地だ。武内正朝は雪降る路上でマルボロを吸っていた。午前5時だった。
コートを肩から羽織ってはいるが、その下は白シャツに黒ベストに黒のスラックス。
勤務していた正装服のままだった。上着はない。正朝はカジノ店のディーラーだ。
夜番勤務を終えて、私服のチェスターコートを羽織って、外にタバコを吸いに出たのだ。
「よくまぁ、降るもんだ」
夜の狭い路地から天を見上げると、かたまりになった雪が顔に降りかかる。
「ふぅー」
ため息と一緒にタバコの煙を天に向かって吐き出した。午後10時から翌午前5時までの勤務だった。トランプカードをさばいていた。緊張の続く勤務だった。
中州に雪が降り始めたのは午前2時頃だった。
そのとき正朝はバカラのカードをさばいていた。
雪が降り出したのは知らなかった。
「帰るか」
携帯灰皿をコートの内ポケットから取り出した。路地の向こうではホストクラブのホスト同士が言い争っていた。おおかた金持ちマダムかなんか、上客の奪い合いの喧嘩だろう。
シャトーの店内に戻って私服に着替え、あとは帰るだけだ。
正朝がマルボロの吸い殻を携帯灰皿に突っ込んでいるときだった。
男は真正面から正朝を急襲した。雪道を小走りに向かってきた。
ドスッ。
正朝は腹部に衝撃を感じた。ボトボトと音がして、雪が赤く染まった。
刺された。雪を染めて流れるのは自分の血だった。
正朝は顔をゆがめながらもその場に立っていた。膝に力が入らず倒れそうになった。
「お客しゃん、勘違いしてからもらっちゃ困るたいね」
声がした。松尾隆史が男と正朝の間に入って、男が突き出した刃物の柄を握っていた。
隆史は正朝より2歳上のディーラー仲間だった。
えぐり込もうとされている刃物が、正朝の身体にそれ以上、侵入しないようにと刃物の柄を握りしめ、止めていた。
隆史が眼光鋭く、男をにらむ。
「いかさまばなさったんはお客様でしょう。こいつはそいばご指摘申し上げて、お客様にはご退店いただいた。そいば逆恨みしてこいつば刺しゅっちんは道理にかないません」
男はブルブルと震えだした。そうだ、つい2時間ほど前、正朝はバカラのテーブルで華麗にカードをさばき、ゲームを進行させていた。勝つ者もいれば、負ける者もいる。
1回の勝負で5万円、10万円、50万円。ときに100万円を負けることもある。逆にいえば勝って100万円を数分で手に入れることもある。それが違法カジノ店のレートなのだ。
正朝を刺した男は、今日初めて来店した。バカラに使われていたU.Sプレイング・カード社のバイスクルのカードを密かに持ち込み、差し替えのいかさまで稼ごうとしたのだ。
男は左手のひらの内側にマジシャンのように、勝つためのカードを隠し持っていた。
正朝が配ったカードと瞬時に自分の持つカードとを差し替えようとした。そのいかさまの技を正朝は見逃さなかった。
男はバカラのその勝負に300万円を賭けていた。見破った正朝は、黒服と呼ばれるフロアの管理者に目配せし、男を退席させた。300万円分のチップは没収となった。
それからの男の行方には、正朝は関心はなかった。男が袋だたきに遭おうと、ただ黙って店を追い出されようとも、それは黒服の仕事だ。
自分はディーラーだ。バカラの進行役だ。
華麗なカードさばきで客を魅了し、賭け事に熱中させればそれでいい。
男はどうやら袋だたきに遭うこともなく、退店させられたらしい。
正朝を逆恨みして、雪降る真夜中の博多中州の街で、待ち伏せをしていたらしい。
そして刺したのだ。
そんな数時間の出来事が一瞬のうちに正朝の脳裏を駆け巡った。
刃物の柄を隆史に押さえられた男は、震え、わぁーっと声を挙げて雪道を駆けて逃げた。
「大丈夫とか、正朝」
松尾隆史の声がする。意識が遠のく。雪道が見える。雪が自分の血で染まっている。
正朝は、ガクッと膝を突き、ゆっくりと仰向けに倒れた。冷たかった。
でも、痛いとは感じなかった。ただ寒かった。黒服と店長が路上に出てきた。
「刺されたのか。さっきのいかさま野郎か」
深尾忠純店長の声だ。