第三話 「一本桜」(68)

桜の木がある家は滅びる。そんな言い伝えがある。
ゆえに、その一本桜の立つ屋敷は、老朽のほどもすさまじく、しだれ咲きの季節になっても、花見に訪れる人はおろか、花の下を通る人も足早に通り過ぎていくありさまだった。
江戸っ子たちは、いつしか、暗闇坂の一本桜だとか、しだれ桜の枯れ屋敷だとか噂をするようになっていた。その坂を、いま、三遊亭円朝が登って行く。
一本桜の屋敷の主、卯之吉老人を訪ねてのことであった。左手には信玄袋に、老人への手土産と届け物をぶら下げている。円朝が初めて一本桜の枯れ屋敷を訪ねたのは、二日前である。行きつけの湯島天神下の居酒屋ひょうたんで会話を耳にした。
「麻布の暗闇坂の、ほら一本だけしだれ桜の植えてある屋敷があるだろぅ」
男は出職、つまり外で仕事をする職人風情であった。商人ではない。大工か左官か、がっしりとした身体をしている。藍染の厚い刺し子袢纏は藍が抜けて、紋がかすれていた。
「知らねぇよ、俺ぁ麻布なんざぁ行ったことがねぇもの」
話を聞いて相づちを打つ男もまた出職であろう。やはり藍のあせた刺し子袢纏をまとっている。同業か、それにしては身体が細い。
がっしり男がほっそり男に言った。
「知らねぇなら、教えてやるよ。そういう気味の悪い屋敷があるんだ。昼でも暗い暗闇坂だぁな、それが暮れ六ツの鐘がゴーンと鳴る頃にゃぁよ。あたりゃは、もう真っ暗闇よ。鼻ぁつままれたって、相手の顔も見えねぇってなもんだ。その暗闇のなかによ、しだれ桜が五分咲きの花をつけていてな。ほぅーと見とれて通るとよ」
がっしり男が身を乗り出して、ほっそり男に声を低くした。
「桜の枝の下から声をかけられるんだよ。“ちょい、そこのお方。そこを通るお方”ってな。こう目をこらすとよ。粋な年増がしゃがみこんでらぁ。“履き物の鼻緒が切れて難渋しております。紐でも布でも結構です。鼻緒をすげるものをお貸し願えませんか”っな」
「ふんふん」
「応えてよ。“手ぬぐいの切れっ端でよろしければお貸ししやしょう”と近づくとよぅ、お前ぇ……」
がっしり男はおびえたような声色を遣って、ほっそり男の気を引いた。
「女はいきなり首にしがみついてきてよ。“その血が欲しい。お前の血が欲しい”ってんで牙をキラッとむくんだよ」
「ひっひぇーっ」
ほっそり男が手にしていた盃を落とした。落としながらも、
「おっ、お前ぇ……。首を噛まれたのかい。女に血を吸われちまったのかい」
とがっしり男に尋ねた。
「いや……。俺ぁはそんなどじは踏まねぇよ。昨日、棟梁の言いつけでな。麻布の寺まで遣いに行ったときによ。暗闇坂の前の道ばたで商人同士のうわさ話を聞いて……」
「何でぇ、脅かすねぇ。うわさかよ。おおかた作り話だろぅ」
「それがそうでもねぇんだよ。若けぇ商人が“うちの手代が噛まれました”って眉をひそめていたからよ。棟梁の言いつけの寺は暗闇坂を登りゃぁ、近けぇんだが、俺ぁ、思わず遠回りをしちまったよ。坂を見上げるとよ。あるじゃぁねぇか。その桜屋敷がよ。ほぅっと暗闇んなかで、ほの明るくて、かえって不気味だぁな。俺ぁ、身震いしちまったぜ。なぁ、お前ぇ、だから麻布へ行っても桜屋敷にゃ近づいちゃならねぇよ」
円朝はふふと笑いながら、二人の話を耳に、ぬる燗の盃を口に運んだ。
そしてその日の昼の四ツ刻に、麻布の暗闇坂の、その桜屋敷を訪ねたのである。
早春の風はときに突風となって、黒羽織の袖のなかに吹き付ける。風の勢いで前には歩きにくい。坂はかなりの急勾配で、下から見て右側が高い崖なっている。
伊予松山藩、十五万石の松平隠岐守の屋敷や、築後久留米藩、二十一万石の有馬中務大輔の屋敷が並ぶ。広大な屋敷地は森林のようだ。麻布は江戸の郊外といってよい。
その森林のような樹木の枝葉が坂に覆いかぶさるように茂っている。
昼間にあって、なお暗いわけである。
円朝は、師匠の二代目三遊亭円生から口伝された江戸の伝統落語も演る。
が、進取の気性に富んだ円朝は、自ら新しい噺を創作して、寄席の高座に掛けていた。
怪談『真景累ヶ淵』『牡丹灯籠』は三遊亭円朝の名を名人噺家として江戸中に広めた。
湯島天神下の居酒屋ひょうたんで二人の会話を聞いた円朝は、
「新しい噺に使えるかも知れねぇ……」
ひそかに考えたのであった。鬼が出るか蛇が出るか。幽霊、亡霊、物の怪が現れるか。はたまた吸血の女が出るか。怪談話の円朝は恐ろしさより先に、その桜屋敷に心を惹かれたのである。うわさ話の桜屋敷は、ほどなく見つかった。坂の途中の古ぼけた壁からふわりと桜が五分咲きほどの淡い花を咲かせて、坂道に枝をしだれかけている。近寄ってみると、土塀は朽ちかけている。漆喰ははがれ落ち、穴も空き、土塀の上に敷かれた瓦も失われているところがある。数枚の瓦が割れたり、ひびが入ったりしながらも土塀に乗っているだけに、老朽のほどがよけいに目立つのであった。足もとは土塀に沿って雑草が生い茂っている。それにしては、見事なしだれ桜である。門らしきものは見あたらない。
暗闇坂に沿って屋敷の土塀がずっと続き、その土塀の一カ所を越えて桜のしだれ枝がたれ下がっているのであった。
陰気な坂道と朽ちかけた屋敷に、春の初めの陽気を盛る桜の花は、妖艶ですらある。
「ほぅ……」
円朝は見とれた。黒羽織の下に紫染めの正絹の着物をまとっている。襦袢は朱色で、頭は小銀杏髷、白足袋に紺鼻緒の草履を履いている。
円朝は両袖に手を突っ込んで、しだれ桜を見上げていた。あたりは昼なお暗い。
「宗助さんかね」
ささやくような声が聞こえた。女の声ではない。しわがれた老人の声であった。
「宗助さんが来ておくんなさったのかね」
円朝でなかったら、腰を抜かすか、坂道を転げるように駆け下りて行くかもしれない。
それほどにシーンとした暗闇坂に、老人の声はかぼそく不気味に響いた。
木戸が開いた。朽ちかけた土塀が草むらに隠されていたので気がつかなかったが、土塀にはくくりのような小さな木戸が設けられていたのだ。
現れた老人は焙烙頭巾をかぶっていた。腰は曲がり、鹿の子しぼりのえび茶色の着物に、暗くて模様は見えないが、青海波の帯を締めているらしい。足もとは草むらに隠れて見えない。円朝は老人をちらりと見て、またしだれ桜の枝を見上げた。
「まったく見事な桜でござんすねぇ。ご老人は、このお屋敷にお住まいで」
「はぁ、宗助さんじゃなかったのぅ。この屋敷を訪ねくださる御仁は珍しい」
老人は土塀下の草むらを踏みしめ、暗闇坂のなかほどに、歩み出た。円朝と並んだ。