第一話 「三日女房」(1)

DSCF5937湯島天神の境内に白梅、紅梅が小さな花を添えている。
ときに寒風が江戸の町を吹き抜けていくが、春はたしかにやって来たのだ。
牧野圭之介は町奉行所の同心である。本郷から続く坂道を湯島天神まで見回りに来た。
「通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの 細通じゃ天神さまの 細道じゃ」
湯島天神の鳥居に陽だまりができている。
日向ぼっこだけではまだ寒いからか、近所の子どもたちだろう、わらべ唄を歌いながら、七、八人の幼子たちが遊んでいる。
「ちっと通して くだしゃんせ 御用のないもの 通しゃせぬ」
向かい合う二人の子どもが両手で輪を作り、その下を他の子どもたちがくぐっていく。
「この子の七つの お祝いに お札を納めに まいります」
圭之介は、しばらく立ち止まって子どもたちの遊戯を腕組みをしながら眺めた。
「行きはよいよい 帰りはこわい こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ」
歌い終わりに、二人の子どもの腕は降ろされ、その輪のなかに一人の子どもが捕まった。
捕まった一人の女の子も、捕まえた二人の男の子もキャッキャとはしゃぎ、捕まった女の子は、一人の男の子と代わり手つなぎの輪を作る番に代わった。
「ふむ、我らの捕りものも無邪気な子どもたちのように笑い合いながら……」
済むものなら苦労はない、という言葉を圭之介は飲み込んだ。
陽だまりに遊ぶ子どもたちは、圭之介には気がつかない。
圭之介は鳥居をくぐり、湯島天神の境内を通り過ぎた。湯島天神は高台にそびえている。
境内から石段を下る。湯島天神下の町がたたずむ。一軒の、つましい家を訪ねた。
「おぅ、圭之介じゃあねぇか。しばらく顔を見せなかったな」
家の奥から声をかけてきたのは、紫染めの着物に、深川鼠の帯をしめ、襟からは朱色の襦袢をのぞかせている男だった。小銀杏髷の月代はさっぱりと剃り、細面の良い男である。 その名を三遊亭円朝という。噺家である。圭之介とは幼なじみであった。
祖父の代までは武士の家柄だったが、円朝の父、出淵長蔵は、放蕩の末に武士の身分を捨てて、芸人となってしまった。長蔵は橘家円太郎の名で寄席では音曲噺を聴かせた。
長蔵の息子、次郎吉は六歳で橘家小円太と名乗り、わずか十歳で二ツ目に登りつめた。
それがいまの噺名人、三遊亭円朝である。
圭之介は出淵家とは町内馴染みで、次郎吉とは木剣を交える仲だった。圭之介の生家、野田家は、貧乏武士の家系ながら、剣術稽古の道場には出費を惜しまなかった。
道場で圭之介と互角に竹刀を交えられるのは、次郎吉くらいだった。
いつだったか、道場帰りに二人は年かさの門下生たち十一人に囲まれたことがある。
「生意気だ」
「貧乏侍の家柄のくせに、御家人の家柄の同門生にあいさつをしなかった」
「芸人風情に落ちた武士の小せがれが何ゆえ、剣術を習うか」
なんくせをつけられたのである。二人を囲んだ年かさの同門生のなかには、真剣を抜く者までいた。斬りかかってくる兇刃をかわし、次郎吉と圭之介は竹刀で十一人を相手にした。次郎吉などは木剣を振り回す同門生に素手で当て身をくらわし、木剣を奪うと六人をあっという間に、叩きのめした。腹や頭を抱え、地に伏して動けなくなった年かさの同門生たちを、しかし立ち上がる手助けをして介抱までしたのは圭之介だった。
「そんな日もあったなぁ。俺もお前も七つを過ぎた年頃だったっけ」
次郎吉改め、円朝が笑う。
「うむ、そんな日もあった。いまも天神様の鳥居のところで子どもたちの遊戯を眺めてホッとしてきたところなのだ」
野田圭之介は、遠縁の牧野家に跡継ぎの男子がいなかったため、養子縁組で牧野圭之介となった。十四歳のときである。
義理の父、牧野隆将の家督を継いだ。小普請ながら直参の御家人であった。
奉行所見習いから始め、いまや定廻りの同心として江戸の町を守っている。
「お互いに子どもの時分には、思いもよらなかった身の上を歩いているものだな」
「まったくだ。天保生まれの俺たちからすりゃあ、まさか黒船が浦賀の沖にやって来るような時代になるとは思いもよらなかったしな」
円朝が圭之介に相づちを打つ。
「黒船については千代田の城のご重役様方の検案だ。俺たち町方には関わりはないが、心配なことではあるな」
圭之介が眉をしかめて円朝に返事をすると、奥から円朝の母親のおすみが出てきた。
「おや、圭之介さん、またあがりかまちに腰かけて、うちの次郎吉とお話しですか。座敷へあがってくださいましな。いま手むきしたアサリを煮付けたばかり。熱ぅござんすよ。糸切り昆布の佃煮と一緒に茶漬けでもいかがです。蕗のとうも煮付けて冷ましたばかりでござんますよ」
圭之介が来ると食事をやたらと勧めるおすみである。遠慮をするのも圭之介の癖である。
腰に廻した青海波の布包みから、竹の皮にくるんだ麦飯のにぎり飯を二つ出す。
「円朝のおっかさん。私は、こうして昼餉は持参です」
「江戸中を歩き回る常廻り同心のだんなが麦飯だけで身体が持つもんですか。さぁ、遠慮なさらずに、座敷へあがっておくなさいましな」