(60)

60―刺客たちは、山笠の後ろを追ってくるのだろうか。
振り返るゆとりはなかった。
夏の午前5時過ぎの博多の街を走る。沿道からは男たちに水が浴びせられる。
水しぶきをあげながら、山笠は疾走して行く。
オイサッ、オイサッ、オイサッ、オイサッ。
舁き手が正朝の目の前で交代した。山笠から離れて、後方を走ることになった男が正朝を見つけて走りながら声をかけてきた。
「どげんしたと。山笠の間を走るのはわしら以外は御法度たい」
ゴリさんだった。
全身ずぶ濡れで、白い半被に締め込み褌、長足袋を履いて駆けている。
「こっ、この娘を、刺客から守って、こっ、国外に、か、韓国にっ」
「うんっ?」
ゴリさんはいかつい顔を正朝に向けて、あごをしゃくり上げた。そして言った。
「男ん事情のあるったいね。よしっ、着いてきんしゃあ」
ゴリさんは真剣な顔をして正朝に言った。シャトーにいるときとはまったく異なる引き締まった表情をしていた。
夜が明けてくる。暗かった博多の街が、昇る陽の光にオレンジ色に包まれ始めた。
「うほっ、西流ん山笠の追いついてきよった。オイサッ、オイサッ」
ゴリさんが仲間に威勢をつけるべく大声を掛けた。
正朝は、初めて後ろを振り返った。
手を引かれるミソンは泣きそうな顔をして必死に正朝について走っていた。
そのはるか後方に別の山笠が見えた。
―あれは……。
『西流』の山笠が男たちに担がれて疾走していた。
台上がり、つまり山笠の上に登って指揮をしているのは、
―ニコジさんだ。
シャトーにいるときと違う。ニコニコと笑ってはいない。真剣な目をして、山笠を舁く男たちを指揮して、迅走させている。身体から気迫があふれている。
正面の3人の台上がりの真ん中にニコジさんは座っていた。
手には鉄砲と呼ばれる指揮棒を握っている。鉄砲は赤い布筒である。
その昔は山笠を舁く、舁き縄で指揮していたが、台上がりが舁き縄を落としてしまい、山台に付いていた飾り物を代用したのが鉄砲の起こりと言われている。
ミソンを引く手が重くなった。
ミソンは苦しそうなゆがんだ表情をしていた。息も絶え絶えである。
もう2キロ以上は全力疾走をしているだろうか。正朝は自分も苦しい息で話しかけた。
「てっ、手を離しちゃダメだ。ミソン、くっ、苦しくても走るんだ」
ゴリさんが数人の男衆に声をかけた。
「うほっ、任しときんしゃい」
ゴリさんがミソンの後ろに回って、ミソンの背中を押しながら駆け始めた。
オイサッ、オイサッ、オイサッ、オイサッ、オイサッ、オイサッ。
ゴリさんが疲れると、他の男がミソンの背中に回ってその背を押した。
ミソンは男衆たちに背を押されながら、どうにか走り続けている。
上呉服町、中呉服町、下呉服町の景色を家々を、眺める余裕もなく、めまぐるしく山笠は疾走して行く。
西流の山笠が背後の距離を縮めてきた。
台上がりしているニコジさんが、前方を駆けている正朝たちに気がついた。
ゴリさんが走るスピードを序々に落として、西流の山笠の方へ後退した。
正朝が振り返ると、ゴリさんは台上がりしているニコジさんに何やら声をかけていた。
それからゴリさんは走るスピードをあげて、また正朝と並走した。
何が起きたのか、正朝には分からなかった。
「流同士で、競い合っていても、山笠に命ば賭けた男ん骨っ節は同じたい。刺客が追って来られんように、ニコジしゃんが、巧くさばいてくれるったい」
ゴリさんは、そう言うと、またミソンの背中を押し始めた。
山笠が博多の街の道を曲がる。
台上がりが鉄砲を振って合図する。
巨大な山笠が、グルリと街の角を曲がって行く。