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59「分からない。分からないが、こうしなくちゃ、俺は薫と新しい生活を始められない気がしたんだ。さぁ、ミソン、韓国へ亡命するんだ。そうして家族を韓国政府に中国から取り返して保護してもらえ。俺が博多湾まで送って行く」
正朝はシャトーのドアからミソンを連れて外に出ようとした。
黒田が目を丸くして大声をあげた。
「薫、薫だとっ。俺の薫を奪ったのは、貴様だったのかっ」
正朝は答えずに急いでドアを開けた。
「なっ、何ね、薫って、ましゃか俺の娘の薫のことやかっ」
堀本の怒声も聞こえた。それにも構わずに、正朝はミソンの手を引いてドアの外に出た。
「マサ兄ぃ、危なかっ」
純平がドアに向かって走った。
黒田が、取り巻きの男たちに目配せをするのを見逃さなかったのだ。
取り巻きたちは、刃を抜いて、正朝の背中を急襲した。
「うぐっ……」
背中で声がした。正朝が振り向くと、純平が2人の取り巻きたちに刺されていた。
「マッ、マサ兄ぃ。逃げて、詩音ば連れて逃げてくんしゃい。詩音は、いやミソンしゃんは、俺を初めて男にしてくれたおなごばい」
「純平ーっ」
隆史が駆け寄った。
「ぐはっ」
純平は、口から血へどを吐いてドアの前に倒れた。
純平がドアに倒れて身体で通路をふさいだことで、正朝は取り巻きの2人が突き出した刃から逃れられた。考えている余裕はなかった。純平を気づかうゆとりもなかった。
正朝はミソンの手を引いて、中洲の街へ躍り出た。
夏の熱気がフワリと正朝を包んだ。まだ夜明け前だった。

ミソンの手を引いて駆けて行く。後ろからは取り巻き男たちが追いかけてくる。
刃物がちらりと見えた。
―俺だけじゃない。ミソンの命も危ない。どこへ、どこへ走ればいいんだ?。
ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドーンと太鼓の音が響いた。
うわーっという歓声が夜空にこだました。
―櫛田神社だ。
正朝は人が大勢いる場所を目指して駆け続けた。
中洲から博多川にかかる橋を渡って、櫛田神社に走った。
猛烈な人込みと歓声と熱気が渦巻いていた。
「オイサッ、オイサッ、オイサッ……」
博多祇園山笠が櫛田神社を出発していく掛け声が響いていた。
夢中で、正朝はミソンの手を引きながら、その群衆のなかへ走り込んだ。
どこの流の舁き山笠か分からない。
1000人を超す男たちが、山笠を舁いて猛スピードで走って行く。
正朝はその山笠の後ろに駆け込んだ。ミソンはサンダル履きで走っていた。
オイサッ、オイサッ、オイサッ、オイサッ。
目の前を山笠が男たちに担がれて疾走して行く。
『大黒流』の挿し札が山笠に見えた。
山笠の後ろについて正朝はミソンの手を引きながら夢中で駆けた。
半被を着た、締め込み姿の男たちに混じって駆けた。
脚には長い黒足袋を履いている。
舁き手の男たちは、周囲を走っている男たちと、次々に交代していく。
合図は決まっている。合図が発せられたら、舁き手はどんなにまだ体力があると自負していても交代しなければならない。指揮するのは台上がりの男たちである。
全力疾走している、しかも重さ1トンを超す山笠の舁き手として交代するのだから、一歩間違えれば、転倒して山笠に踏みつぶされる。死を覚悟の博多祇園山笠なのである。
その危険を承知で、男たちは新たな舁き手と瞬時に交代する。
沿道を埋めつくした観客たちは、舁き手が一瞬で入れ替わる息の良さに拍手を送る。
だが、正朝は必死だった。
ミソンの手を引いて、大黒流の山笠の後ろを走り続けた。猛烈なスピードであった。