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54「櫛田入りがあるったい。境内にある清道を山笠が廻るったい。そいが博多祇園山笠の全行程の始まりったい」
レースは、櫛田入りのタイムと廻り止までのタイムの両方で争われる。
おのおのの流の名誉をかけた競争である。
清道旗は、櫛田神社の石版の上に立てられる赤い旗だ。
もともとは、江戸時代初期、航海の安全を祈念して琉球貿易船の舳先に飾られた。
海とともに栄えた博多の土地柄を反映している。
櫛田入りは山笠が神社の境内に入り、この清道旗をぐるりと周り、境内から出て行くまでのタイムレースである。
清道を廻って境内を出るまでの距離は112メートル。時間にして30から35秒を競う。
1トンもある巨大な山笠を周回させるのだから、舁き手の男たちの息が合わなければ難しい。1つの流の山笠には1000人近い男たちがつく。1000人の息を合わせるのである。
舁き手を指揮するのは、山笠の上に登った男たちである。指揮者は台上がりと呼ばれる。 台上がりは正面に3人。見送りと呼ばれる後方に3人である。
総務や取締といった各流の役職に就いている者が台上がりを務める。
櫛田入りを果たした山笠は洲崎町の周り止めを目指して、全行程5キロを疾走してゆく。
男は、正朝にそうしたことを、早口の博多弁で説明した。
「兄しゃんは福岡のもんやなかね。まして博多っ子やなか。博多もんなら、こげんことは常識たい」
正朝は境内に入るのをあきらめた。境内の外から拝殿に向かって両手を合わせた。
「ほおぅ、殊勝なこったい。きっとご利益があるとよ」
正朝は男に軽く頭を下げると、黙って櫛田神社をあとにした。
橋を渡って、中洲に戻る。
博多川沿いの歩道のベンチに向かう。マルボロを1本くわえた。
「ん?」
川端飢人地蔵尊の前に人影が見えた。
「ミソンじゃないか」
正朝はくわえていたマルボロを箱に戻した。
ミソンは地蔵に手を合わせていた。
立ち上がって、振り返ったとき、正朝と目が合った。
にこりとミソンは笑顔を見せた。
笑顔のまま、ペコリと正朝に頭を下げると、ミソンは中洲1丁目に向かって走り去った。
残された正朝は立ち尽くしていた。
―おそらくミソンは、家族と一緒に韓国に亡命できる日が来たと嘘を言われたんだ。
そう直感した。
それが、あの笑顔の理由だ。
ルネの由佳里が言っていた。
ミソンが北朝鮮に送還される予定日は7月15日だと。つまり明日だ。
ミソンはお礼参りに地蔵を拝していたのだろう。
ミソンの笑顔と薫の笑顔が頭のなかで重なった。身体が熱くなった。
―だが、どうしようもないじゃないか。
かぶりを振る正朝だった。
川沿いのベンチに座った。さっきしまったマルボロをまた取り出して火を点けた。
対岸の櫛田神社の明かりが煌々と夜空に映えていた。
午後10時、正朝はシャトーの控え室からカジノフロアに立った。
いつものようにバカラのテーブルにつく。
ネズミ爺さんが座っていた。ニコジさんとゴリさんの姿はなかった。
閑散とした夜のシャトーだった。客が少ないのだ。
午前0時、正朝は最初のディーリングを終えて控え室に戻った。
隆史も、バーテンダーの純平も控え室に入ってきた。
「渋かねぇ。お客が少なすぎるばい。今日は昼のほうがお客は多かったそうたい」
隆史が、どっかりとソファーに腰を降ろしてぼやいた。
「俺もカウンターバーに立っとっても、注文がなかですもん。暇たい」
純平は正朝と隆史に遠慮してソファーには座らずに立ったまま言った。
「どーんと、大金ば張り込むお客の来なかとかねぇ」