(53)

53 ワッと薫がまた正朝の胸のなかに顔をうずめて泣きじゃくった。
コーヒーは部屋のなかで飲むことにした。
「化粧が流れて、うちブスになってしもうたもん。外に出たくはなか」
泣いていた薫は笑顔に戻っていた。
いつの日だったか、薫が買ってきたコーヒー豆を挽いた粉を冷蔵庫から取り出して、薫はドリップコーヒーを2杯分、抽出した。
「はい、マサ君の分」
夏だというのに、薫の手渡してくれたマグカップの温かさがうれしかった。
「親父は許してはくれんやろねぇ。マサ君、どうしよう」
「薫を連れて、どこか遠くへ行くか」
何気なく、口にした言葉だった。
「本当っ?。うちのこと離さんといてくれる」
「ああ、離さないよ」
「ずーっと、ずーっと、どこまでも離さんといてくれる」
「ああ、離さないったら」
抱きついてきた薫の衝撃で、マグカップのコーヒーが床にこぼれた。
薫は構わず、正朝を押し倒した。
「抱いていて、ずーっと、うちのこと抱いていて欲しか。離さんといて欲しか」
これで人生が開けるのか。無気力、無関心、無感動。無のつく感覚が消えている。
正朝は自分でも信じられないほどに感動していた。
―俺と薫の子どもが、生まれてくる。
気力がみなぎってくるのを感じた。
そして今は、薫に夢中だ。薫もたぶん正朝に夢中だ。無関心だった他人。
自分以外の人間が、自分の領域に侵入するのをあれほど嫌っていた自分は、どこかに消えていた。
―今夜でシャトーを辞めよう。
そしてどこかの街で、カジノのディーラーとしてではなく、仕事を探そう。
ふと大介と夕子のことが思い浮かんだ。
大介の気持ちが、今なら自分にも分かる気がした。
その日は夕刻までベットのなかで薫と過ごした。
昼食をとるのも忘れていた。
午後5時を過ぎて、薫は化粧を直すと、買い物に出かけた。
野菜と牛肉とカレールーを買ってきた。
薫の作るカレーの香りが正朝の部屋を満たした。
―これが生活ってやつ、いや人生ってやつかも知れないなぁ。
エプロンをまとった薫の後ろ姿を眺めながら、正朝はふとそう思った。
2人で食卓を囲んでカレーライスを食べた。
「明日の朝、うち、家を出るったい。大濠公園の入口で待っとってよかと?」
大濠公園は薬院から西にある。福岡市市中央区の公園だ。
福岡城の外濠を利用して作られた。広さは40万平方メートル。大きな池が特徴で島が浮かび、その島へは外周からの橋がつないでいる。外周はおよそ2キロで、ジョギングやサイクリングのコースとして市民に親しまれている。
「あぁ。分かった。迎えに行くよ」
正朝が返事をすると、薫はバニラアイスクリームに薄いチョコレートをトッピングしたデザートを食卓に置いた。ミントの葉が添えられていた。
「やったら、今夜も勝ってね。マサ君、勝負の前は甘いものを食べるとやろ」
午後8時30分、正朝はアイスクリームを食べ終えると、薬院のマンションを出た。
中洲のカジノ店シャトーへと歩き始めた。

中洲2丁目、シャトーへ続く道を横目に、博多川にかかる橋を渡って櫛田神社に向かう。
参拝してゲンを担ぐつもりだった。
人混みが神社を囲んでいる。境内には臨時に設けられた観覧席が覗き見える。
「博多祇園山笠の出発を観るための観覧席たい」
見知らぬ初老の男が、正朝に語りかけた。
正朝は自分が困惑した顔をしていたのだろうと察した。