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52「あぁ」
「うちがマサ君と初めて会うた、親富孝通りの角打での夜のこと覚えておると?」
「あぁ、覚えている。すごく酔っていたよな」
「あの日、うち、おなかのなかにおった赤ん坊を堕ろした晩だったんよ」
「堕胎……したのか」
「そう。だから、うちは人殺したい」
「どうして、そんな。誰の子だったんだ」
「うちの婚約者の男の赤ん坊たい」
「婚約?」
「そう、うちには親父が勝手に婿として選んだ婚約者がおると。親父は貿易会社を経営しとう。その貿易相手国の中国の企業の副社長たい。社長は中国人、副社長は日本人。親父は事業を拡大させるために、うちをその副社長と婚約させたんよ。そいでそん男が日本に帰ってきた晩に、ホテルで晩餐会ば開いて、大勢の来賓客の前で突然の婚約発表したとよ。
一番、驚いたのはうちやった。そげん話ば聞いておらんかったもん」
正朝はあの晩を思い出していた。初めて薫と出会った晩のことを。
「うちが晩餐会場から逃げ出そうとしたら、親父の部下たちがうちを取り押さえて、そいでそん男の隣の席に座らせたと。副社長の名は黒田。福岡の出身たい。ねぇマサ君、信じてくれる?。うちは、そん男ば、ちっとも好いとらんと。卑怯な男やもん」
「どう卑怯なんだ」
「うちのお酒に睡眠薬ば入れて、うちを眠らせたとよ。そいでホテルの部屋に介抱するふりをして、無理やり、連れ込んだと。いまでも覚えとう。“婚約したからには、俺の女だ”と黒田がにやけながら言った言葉だけは覚えとう。そして……」
そこで薫は言葉を詰まらせて、また泣いた。
「無理に話さなくてもいいぞ」
薫は小さな顔を横に何回も振った。
「話さんと、話さんと、許してもらえんもん」
「誰に許してもらえないんだ」
「マサ君にばい」
「俺は、そんな話を聞いたからって薫を許さないなんてことはないさ」
「そうやなか。聞いて欲しか。そんでね、そんで……その晩のことだけで妊娠して」
「もういい。そんなつらい話なら、もう黙っていろ」
正朝は薫を抱きしめた。
薫の心臓の鼓動がコトコトと高鳴るのを、合わせた身体の肌に感じとった。
「迷ったけれど……。嫌いな男の赤ん坊たい。婚約したからって、うちは言いなりに結婚ばしとうなか。そいに、黒田は、婿入りすると見せかけて、親父の会社を中国企業に買収させる計画なんよ。だから、うちは黒田の子ば堕ろしてしもうた」
「もういい。そんなに泣きながら話すなら、もうやめろ」
ワッと声をあげて、薫は正朝の胸に顔をうずめた。
しばらく声をあげて泣き続けた。
「そん晩やった。堕ろして、命が消えて。うちは家にも帰る気がしなくて、飲み歩いて、そいで親富孝通りの角打にいつの間にかたどり着いて、まだまだ呑んでいたと。そこへ、マサ君が現れた。ヤクザやと思った。ヤクザなら、うちをめちゃくちゃにして欲しかったとよ。うちね、人殺しやもん」
思い出した。初めて会ったばかりの晩に薫は自分から正朝の身体を求めたことを。
「でも、マサ君はヤクザやなかった。あったかい血の流れとう優しか男やった。うち、うちね……」
「ん?」
「本気で惚れたとよ。遊びのつもりやった男に本気で惚れたと。そいがマサ君」
「それなら、良い。もう泣くのはやめろ。さぁ、朝のコーヒーでも飲みに行くか」
「待って。話は終わっとらんと。うちが許してもらえるかどうか。まだ話は終わりやなかとよ」
「許すって何をだ。それだけ打ち明けてくれたなら、俺はもう薫を許しているさ」
「そうやなか」
薫は正朝の胸から顔をあげ、両腕で正朝の胸を突き、自分の身体を正朝から離した。
「また。また、赤ん坊がうちのおなかに宿っとう」
「えっ」
「マサ君の子どもたい。お願い、この子ば産ませて欲しか。それを許して欲しか。そいが、うちの本当に話したかった秘密たい」
正朝は沈黙した。薫は涙をこらえて、正朝の顔を見つめた。
「俺の、俺の子」
正朝のなかで何かがうずいた。
「俺と薫の子」
身体が熱くなるのを感じた。
「薫、俺と一緒に暮らすか」
正朝が口にしたのは、自分でも信じられないほどの、しかし素直な言葉だった。