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47 1階に降りる。由佳里がカーテンの内側まで見送る。
自動ドアが開く。正朝は振り返らず、片手をあげてサヨナラの挨拶をした。
正朝はまっすぐに薬院の自宅マンションに帰った。午前7時を回っていた。
ミソンを助けたい自分の心境の変化に驚いていた。
ベッドに横になる。グルグルと自分の考えを巡らせていた正朝だったが、いつしか眠りに就いてしまった。

7月11日。午後3時。玄関のチャイムが鳴った。薫だった。
チャイムの音で正朝は目覚めた。気がつけば今日は非番で休日だった。
「追い山馴らしば、観に行こう」
それは7月15日の博多祇園山笠の追い山のリハーサルである。
寝ぼけた身体で、正朝は薫に手を引かれていった。
午後3時59分。1番山笠が櫛田神社を出発する。猛烈な勢いで男たちは山笠を舁いて走る。7つの流の山笠が次々に櫛田神社を駆け出してゆく。上川端通りの巨大な高さ10メートルを超える山笠も出発した。寝ぼけていた身体が目覚めるような迫力だった。
「周り止めに先回りして、山笠の到着ば観よう」
「周り止めって何だ」
「簡単にいえば、山笠のゴール地点。洲崎町が周り止めたい。中洲の隣町やろ」
山笠は櫛田神社からまっすぐに洲崎町を目指すのではない。祇園町、冷泉町、御供所町、店屋町、上呉服町、中呉服町、網場町、下呉服町……と旧博多市街を舁き走る。
博多の街をくまなく走り、細かな路地も曲がりながら、遠回りをして洲崎町を目指す。
コースの全長はおよそ5キロメートルに及ぶ。
山笠が走るコースの沿道には、見物客が殺到しているだろう。沿道に立って見るのは危険でもある。猛烈な勢いで疾走する山笠に巻き込まれてしまうからだ。沿道の家屋の2階などから、眺めるのである。
薫と正朝は山笠の疾走するコースを、わざと外して、櫛田神社から川端町を歩き抜けて洲崎町を目指した。
やがて1時間ほども経つうちに、1番山笠が洲崎町に駆け込んできた。
白い水半被にふんどし締め、長足袋の男たちが山笠を舁いてなだれ込んでくる。
命のエネルギーが飛び込んでくるような迫力だった。
洲崎町の周り止めの隣には、東中島橋が博多川にかかっていた。その先は大黒橋、そして須崎橋を越えて、博多湾に続いている。潮風が夏の洲崎町に吹いていた。
「4日後の15日の本番は、もっと迫力のあるとたいよ。何しろ、流同士がタイムレースを競うけん。男衆は死ぬ気で山笠ば舁くたい。あぁ、それでも追い山馴らしは気持ちのよかもんやねぇ。うちは男らしか男が好きたい。マサ君みたいなね」
正朝は東中島橋から遠く、博多湾を見つめていた。
「ここから先は海か、日本海か」
「どげんかした?」
「いや、何でもない」
何でもないと答えながら、正朝は博多湾に続く川の大きな流れを見つめていた。
―ここからなら海で韓国につながっているわけか。ミソンを逃がすとしたら……。
そんな、妄想のような考えを巡らせる正朝だった。薫が気にせずに言った。
「そいやったら、櫛田神社の街ば戻ってコーヒータイムとしましょうか。マサ君、おなかもすいとうやろ」
「そうだな」
2人が櫛田神社近くにたどり着いたときには午後6時を廻っていた。
櫛田神社とキャナルシティ博多はエスカレータと歩道橋でつながっている。
2人はキャナルシティ博多のレストラン街に向かった。
大介の送別会を催したレストランの前を通った。
―大介と夕子さんは、もう京都にいるのか。うまくやっているかな。
「何か、考え事?」
薫が正朝の顔をのぞき込んだ。
「いや、何でもないさ」
―今日の俺はどうかしている。他人のことばかり考えているじゃないか。
しかし今夜は非番だ。カジノへの精神集中は必要ない。そう自分に言い聞かせる。
2人はスペイン料理の店へ入った。正朝はパエリヤを注文し、薫はタパス(前菜)の盛り合わせと、サングリアを注文した。赤ワインを甘いオレンジジュースで割って、一口大に切ったレモンとシナモンを少々加えた飲み物だ。タパスに盛られた生ハムやチーズをつまみにした。
「ねぇ、今夜はマサ君は非番やろ。うち、久しぶりに泊まっていってもよか?」
それは身体を合わせる夜を共にすることを意味していた。
「ああ、いいよ」
とだけ短く正朝は答えた。
午後8時、2人は歩いて薬院のマンションに向かった。