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41 男は、また1万円から賭け始めた。
こうして何回も負けようとも、男は賭け金を3倍にして、賭け続けた。
10回の勝負のうちに、3回目、6回目、8回目と、どこかで男は勝った。男はこの3倍マーチンゲール法を繰り返して、すでに1000万円を超える勝ち金を手にしていた。
2時間はあっという間に過ぎた。ディーラーの交代時刻が来た。
正朝はテーブルの客におじぎをすると、控え室にさがろうとした。
男は正朝に、フフンッと鼻で笑いを向けた。正朝はグッと堪えた。
―やられた。あの男、がさつな酔っ払いのふりをしながら、冷静に賭けていやがった。
大介が控え室に戻ってきた。
「やられたか。正朝。あの客だろう。あの男、ポーカーでも心理戦で挑んできたんだ。酔って笑顔を作って、さも良い手が揃ったように見せかけたよ。本当はクズのカードしか揃っていなかったのにさ。逆に良い手が揃ったときは、がっかりした顔を他の客に見せたりしてさ。がさつな酔っ払いに見せかけて、ポーカーのテーブルに座る他の客たちに優越感を与え、自分への侮蔑をさそって油断させてさ」
大介は、首が窮屈だというように蝶ネクタイをゆるめて言葉を続けた。
「ポーカーフェイスってのは、どんな良い手が揃っても、悪い手が回ってきても、無表情で動揺や興奮を読み取られないようにすることだけれど、あの男はそのうえを行っているよ。酔っ払いの表情を逆手にとって、他の客を安心させて、賭け金を吊り上げさせたんだから」
正朝は大介には返事をしないで、控え室のコーヒーカップを口に運んだ。
控え室には隆史も戻ってきた。大介は続けた。
「4回、連続で勝ったところで、心理戦を使っていたことがバレると思ったのか。正朝のバカラのテーブルに移っていった。マーチンゲール法を使ったんだろう?。やられたよね。見かけない顔だけれど、誰なんだろうね」
監視カメラの映像を眺めていた深尾店長が言った。
「堀本正。52歳。株式会社ホリモト社長」
深尾店長は、ノートパソコンのファイルを検索しながら言葉を続けた。
「アジア諸国との輸出入貿易がメインだが、福岡県内にショッピングモールを経営。他にも福岡市内に飲食店を展開するなど、手広くやっているようだな。豪腕だが、ワンマンな面もあるとの評判だ」
深尾が眺めているのはシャトーの顧客名簿だった。アクセス権は深尾にしかない。
顧客名簿は深尾が独自にお客の身元を確かめるためにデータベース化したものだとの噂だった。さらに噂では、身元調査に渡辺刑事が力を貸しているらしい。
正朝たちディーラーは、噂レベルでしか知らない。
その顧客データベース情報をなぜ、深尾は話してくれたのだろう。
「堀本正は、シャトーにとってVIPなんだ。来店したのは1年ぶりだ。私も詳細までは知らされていないが、シャトーの経営者と深いつながりがあるらしい。つまり闇社会の黒幕でもあるということだ」
たしかに深尾は雇われ店長だ。シャトーのような違法カジノの経営者は別にいる。
正朝たちディーラーのような下部の者には、シャトーの経営者が誰なのか。さらにいえば、どんなヤクザ組織なのか、知らされることはない。隆史が言った。
「だけん、シャトーにっとっち大事な客だっちゆうやね」
深尾が堀本正の情報を正朝たちに告げたのは、まさにその一点だった。
「そうだ。どんな賭け方をして、どんなに勝ちをおさめようとも、堀本さんには私たちはアンタッチャブルで接しなければならないということだ。よろしく頼むよ」
深尾はノートパソコンを閉じながら、正朝たちにそう告げた。
正朝は思い当たることに戦慄していた。
―堀本……。堀本薫。薫は父親に殴られたと言っていた。正なんて名前で、ちっとも正しくなんかないと嘆いていた。父親は貿易会社を経営していると言っていた。すべて符合する。あの男は、堀本正は、薫の……父親なのか?。
2時間の休憩が終わった。午前2時。正朝たちはカジノフロアに戻った。
堀本正の姿はなかった。勝ちをおさめるだけおさめて、退店したのだろう。
そして、北朝鮮から脱出したミソンの家族を中国に留め置いて、ミソンだけを日本に密入国させ、ソープランド、ルネで働かせている。
いわばミソンは、ミソンの家族にとっての人質だ。そのことに気がつかずにミソンはソープ嬢の生活を強いられている。すべて薫の父親が仕組んだことなのか。
―だとしたら、どうする。
いや、どうもしない。自分には関係のないことだ。自分はカジノのディーラーだ。
今夜もカードをさばけばいい。
生きている実感は、ギャンブルのカードをさばいているときだけに感じる。それが自分の人生のすべてだ。
―すべて?。薫と出会ってからの俺はどうなんだ。薫といるときの生きている実感は?。
バカラのテーブルに立って、カードをシャッフルしながら、正朝は考えていた。
―ミソンのお守りを拾ったときの、その後にミソンの身の上を、ルネで聞いて知ってしまった後の憤りに似た感情は、俺のいったい何なんだ。
「兄しゃん、はよカードば配っちくれ」
ゴリさんが言った。まだバカラのテーブルに座っていた。
ハッとして、正朝はゲームに精神を集中させていない自分に気がついた。
―どうかしている。
正朝は冷静さを装うと、一枚目のカードをテーブルに配した。

本格的な夏が巡ってきた。
博多どんたくの晩から堀本正は、もうシャトーに姿を現さなかった。