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38「どうしたんだ」
正朝が尋ねる。
「今夜もマサ君が勝ちますようにって願掛けしとう。あともう一つ、お願い事」
「何だ」
「そいは内緒たい。言うたら、叶わんようになる気がすると」
そう言うと、薫は港に建つタワーに向かって走り出した。
クルリと振り返ると、
「夕暮れの港を一望しよう。マサ君もおいでよ」
また前を向いて走り出した。赤い鉄骨が組まれたタワーに向かっていた。
博多ポートタワーは、全高103m、展望室床面高70m。
展望台部分は2層だが、上階は24時間体制で港の安全を守る無線局なので一般人は入れない。展望フロアから眺める夕景の博多湾はオレンジ色の夕焼けが海面に反射して、キラキラと光っていた。
あっという間に群青の空が広がった。日没だ。海は暗くなっていく。
代わりに港湾のあちらこちらに点灯した明かりが暗くなる海に際立って輝く。
「ロマンチックやねぇ」
わざと言って、薫は正朝の肩に頭を添えた。
浮き桟橋から、市営船がどこかの島に向かって出港するのが眺められた。
さらに博多港の沖を眺めると、さまざまな船舶が航行する明かりが見えた。
「うちの親父の会社の貨物も、どれかの船に乗せられて運ばれとう。親父しゃんの会社は輸出入の貿易ばやっとうからね。貨物やなくて、うちがマサ君と海外に行きたいなぁ」
薫は正朝の肩に頭を乗せたまま、憧れを口にした。
「ふぅん、そうか」
正朝は、ただ相づちを打った。
「うちね、マサ君に会うてから変わった気がすっとよ。昔は長い髪ば茶髪に染めて、高級ブランドで飾って、夜中に酒ば飲みに行って、独りで街ば酔いちくれて、うろついて……。
腹んたつ気持ちば、どこかにぶつけちゃると思って、やけを起こしたごたる生活で荒れてたとね。親への反発もあったかもしれん。でも、もっと何かもっと、自分ば壊したくなる気持ちで、すさんで生きとったもん。親富孝通りの角打で声をかけたんも、マサ君が堅気のもんやなか雰囲気に惹かれたからばい。でも、マサ君……優しか。メロンを買うてきてくれた晩のこと覚えている?。親と喧嘩してマサ君のマンションに駆けつけて。あんときのメロンば美味しかったぁ。マサ君の優しさで、うちはおだやかな気持ちになっとう」
薫は正朝の肩に乗せた頭をクリクリと動かした。照れ隠しだろうか。
「でも、マサ君は、うちに会うてから、どげんか良いことのあったとたいか?」
薫が肩にのせていた頭を離して、正朝の顔をのぞき込んだ。大きな丸い瞳だった。
「いつか、この港から海外に旅に出ような」
正朝は薫の質問に答える代わりに短く言った。
「うんっ」
薫がはしゃいだ子供のように返事をした。
海原はすっかり夕闇に包まれていた。船の明かりだけが海原に遠く灯っていた。
博多ポートタワーから降りた2人は、博多ふ頭のレストランでコーヒーを飲んだ。
「そろそろ行くか」
正朝が腕時計を眺めて言った。午後7時30分を廻っていた。
「うん、マサ君。今夜も勝ってね。7時にどんたくのパレードは終っとう。タクシーで中洲まで送るたい。うちは、そのまま家に帰るね。そいでよかと」
薫が港の入口でタクシーを停めた。築港本町から対馬小路、洲崎町と巡れば、もう中洲中島町だ。昭和通りで正朝はタクシーを降りた。
かつて正朝が薫にルイヴィトンのバッグを買った博多リバレインの近くである。
薫はタクシーに乗ったまま、正朝に手を振った。タクシーに独り乗って去った。
正朝は中洲5丁目から3丁目に向かって歩き出した。

その晩のシャトーは、客が大勢詰めかけた。すでに酔っている客もいた。
客たちは、ウキウキと浮かれた態度が目立つ。博多どんたくの祭で興奮から醒めずにカジノにやって来たというところだろうか。
常連客の紹介で、初めて来店する客もいる。
5月3日の夜は、そんな新顔の客も数人いた。
深尾店長が控え室で正朝たちディーラーを集めて訓示した。
「どんたくで気分が高揚しておいでのお客様が多い。お酒をお召しのお客様も多い。冷静なゲーム進行は難しいだろうが、落ち着いて対応してほしい。勢いで高額を賭けるお客様も増えるだろう。それだけにお客様が損失を受けた場合に喧嘩などのトラブルに発展する可能性もある。お客様を楽しませることだ。それから新規のお客様にはリピーターになっていただけるような楽しいゲームにしてくれ。店側の損失は今夜は覚悟している。だだし、大負けは困る。そのあたりは皆んなの肩加減だ。よろしく頼むよ」
正朝たちはカジノフロアに散った。
正朝が仕切るバカラのテーブルは満席だった。
テーブルの脇に立ってゲームを眺める見物客もいた。
大介のポーカーのテーブルも、隆史のブラックジャックのテーブルも、満席だ。