「さぁ、そこまで踏み込んだことは、私らには知らされんばい。でも察するに詩音ちゃんは、ほら“家族に早く会えますように”って願掛けとるでしょう。そのことと何か関係があるんやなかやろか」
「そうか、ありがとう。これ以上を聞いても由佳里さんも知らないってことだな」
正朝は3万円を由佳里に渡した。
「何ぁんも、サービスしとらんけん、これは受けとれんばい」
由佳里は、3万円を正朝に返そうとした。
「良いんだ。邪魔したな」
立ち去ろうとする正朝の腕を由佳里は握った。
「そいやったら、またお店に来てほしか。そのときは無料で精一杯サービスするけん。これは、そのときの前金ということで預かっとく。ねっ、そいで良かろう?」
正朝は返事をしなかった。部屋を出る正朝に、あわてて由佳里が同行した。
「この人形のお守りは、あたしが詩音ちゃんにちゃんと手渡しておくけん。安心ばして」
由佳里は正朝の腰に手を回した。2人が廊下を歩く。エレベータで階下に降りる。
1階の待合室に向かったとき、どこからか、がなり声が聞こえた。
「んっ?」
正朝は耳を澄ませた。まだ正朝と由佳里はカーテンの内側にいた。
カーテンをくぐれば待合室である。カウンターには従業員がいるだろう。
正朝が由佳里に声をひそめて言った。
「由佳里さんの部屋にコップはあるか。できればガラスのコップがいい」
「そいやったら、お客さんと接する前に歯磨きするためのコップがあるたい」
「そのコップを急いで持ってきてくれないか」
由佳里は再びエレベータに乗り、急いでコップを運んできた。
「どげんすると」
コップを渡しながら由佳里が尋ねた。
正朝は壁にコップの口を当て、底を耳につけた。
「こうすると、壁の向こうの声が聞き取れるんだ」
聞こえてきたのは男のがなり声だった。
『ミソンいや詩音に、もっと客ばっとらしぇろ』
答える女は賀代子の声らしい。
『そげなこつ言うても身体に限界っちゆうもんのあっけん』
がなり声がまた聞こえた。
『来週に中国がら財界んVIPの4人来んしゃー。そんなかん1人が詩音の家族ば軟禁しとる。そん中国人に詩音ば抱かしぇろ。俺がらん接待ばい』
『なしてそげなこつばしゅるん』
『いずれミソンいや、詩音も、そん家族も北朝鮮に送り返しゅ。中国がら脱北者ば返還しゅれば、そん財界人ん商売のうまくくる。貿易相手ん俺も潤うんやけん。北朝鮮に送り返してからなおす前に、詩音んみずみずしか身体ばそんVIPに味わわしぇてやるとよ』
がさつな男の声に賀代子が笑いながら答えた。
『ははは、残酷なこつばしゅるね』
正朝は、察した。詩音の本名はミソンというのだ。そしてミソンは……。
―北朝鮮からの脱北者だ。おそらく中国との国境を越えたのだ。その家族は中国の財界人に軟禁されている。詩音いや、ミソンだけが日本に送られてきたのだ。
『ミソンん親はただん脱北者じゃなか。北朝鮮政府ん情報部にいた人物やけん。中国はそん情報ばどいでんが聞きいげたら、そんでから用無しになるとよ。中国ん外交カードっちしてから、北朝鮮に送り返しゅ段取りばい』
男のがさつな声はなおも言葉を続けた。
『ミソンばいったん韓国に移してから、日本に密入国しゃしぇたんは俺ばい。“家族の韓国に亡命しゅるためには資金の必要やけん。そんためにはミソンが日本で金ば稼ぐんや。そん資金で家族一緒に韓国に亡命しゃしぇてやる”っち言うてな。ミソンは素直な娘ばい。ははは、俺ん言う通りに日本にやって来た。ましゃか自分の人質っちになっとうとは気のつかんでんな。ははは』
賀代子が尋ねた。
『そんでからあんだには、どげん得のあっけんん』
『中国ん財界人に恩ば売れるとよ。俺ん商売は貿易やけん。福岡県における中国っちん貿易ん権利ば独り締めしゅる約束になっちいる』
賀代子はしばらく男と一緒に笑っていたが、口調を変えて男に言った。
『ねぇ、久しぶりに来よるんじゃなか。今夜は泊まっちいっちちゃ』
『そーだな。ミソンばこん店に預けて以来やけん半年ぶりか。やけど俺にも家族のちゃてな。やけん今夜は帰るとよ』
男が部屋を出る。
正朝は壁に押しつけていたコップを外した。待合室に男の姿が現れた。
カーテンのすき間から男の姿を見た。がっしりとした大きな男だった。
縦縞の太いストライプのスーツ。派手なブランド物のネクタイ。
男を見送りに賀代子が待合室に現れた。黒い自動ドアをくぐって男は去って行く。