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32 書籍から顔をあげた薫が答えた。
「うち、大学でイギリス文学を専攻しとるんよ。この嵐が丘は1847年に書かれた小説たい。主人公のヒースクリフは復讐のために、賭博を申し出て大きな屋敷と財産を奪ってしまうんよ。イギリスのヨークシャーの自然と風土を背景に描かれる復讐のドラマ。怖かけれど、人間の心の奥を描いた小説。ヒースクリフは冷酷やけれど、本当は愛を渇望しとう寂しか男たい。クールでニヒルなところが、ちょっとマサ君に似とるかもしれんね」
「ふーん、そうか」
正朝の返事はそれだけだった。そしてまたカードさばきの練習に戻った。
薫は読書を続けた。ときおり、ノートを取り出しては、何かを書き込んでいた。大学に読書レポートでも提出するのだろうか。だが正朝は、それ以上は何も尋ねなかった。
午後6時を過ぎた。練習を終えた正朝は、テレビ番組で天気予報を観て、湿度を調べ、マルボロを1本吸うとマンションの部屋を出た。午後7時になっていた。
薫も一緒に部屋を出る。サングラスをかけた正朝に並んでワンピース姿の薫が歩く。
天神中央公園までたどり着いた。公園は初夏の薄闇に暗く沈んでいた。薫は、
「今夜も勝ってね」
と言うと、正朝の頬にキスをした。
そしてクルリと背中を向けると天神の繁華街の明かりのなかへと歩き去って行った。
正朝は藍色のアレキサンダーマックイーンのブルゾンに両手を突っ込むと、公園を抜けて中洲に向かった。
―今日の甘味は、何にするか?。
川端商店街のアルデュールのマカロンか、中洲ぜんざいか、櫛田の焼き餅はもう閉店している。川端鯛焼きならまだ間に合うか。
正朝のお気に入りの甘味処は、中洲を通り抜けた博多川対岸の川端町に集まっている。
その前にまず中洲の手前の那珂川を渡らなければならない。
―今夜も勝ってね……か。
心のなかで薫の言葉を思い出しながら、福博であい橋を渡る。中洲の町にたどり着く。
―まるで、カミさんにでもなったかのような見送りの言葉だな。
2つの川にはさまれた幅200メートルの町を抜ける。博多川を渡れば川端町だ。
―カミさんか。薫と家庭を作る……。まさか、そんな、自分が。
甘味を味わう前に、櫛田神社に参拝する。正朝はそのために明治橋に向かった。
中洲3丁目から2丁目へ続く博多川沿いの道をゆっくりと歩く。
「ん?。あれは」
川端飢人地蔵尊のほこらの前に、しゃがみ込んで目を閉じ、両手を合わせている人影があった。詩音だった。
ソープランド、ルネで純平の相手をした娘だ。
初めて正朝と会ったとき、手渡した櫛田の焼き餅を返してきた、あの娘だ。
正朝は黙って通り過ぎようとした。そのとき、合掌していた詩音が目を開けて立ち上がった。振り返った詩音と正朝の目が合った。まさに出会いがしらだった。
「あっ……」
詩音が声を出した。
「この間は、ども、ありがと、ごじゃいました」
焼き餅を渡したことへの感恩なのか。ルネの客として来店したことへの謝礼なのか。
正朝が考える間もなく、詩音はペコリと頭を下げると、急ぎ足に中洲1丁目に向かって歩き出し、そして駆け出して去った。

後ろ姿を見送って、正朝は足もとに、詩音が落としていった何かを見つけた。
「落とし物だぞ」
正朝が声をかけたときは、もう詩音は初夏の夕闇に消えていた。
拾い上げる。フエルト生地で縫った人形の束だった。そう束である。
男の人形と、女の人形、それより小さな人形が2体。子どもたちだろうか。
手をつないでいる。不器用な縫製は手作りだからなのだろう。女の人形は民族衣装チマチョゴリの服飾だった。詩音の手作りなのだろう。
家族……。その人形は家族を模したものに見えた。
正朝の心に去来するものがあった。自分は大学時代にカジノの世界に入ってから、家族とは音信不通だった。家族は自分から捨てたような気がする。だが家族は自分を探しているかもしれない。エリートサラリーマンの父親と、口やかましい良妻賢母の母親は、正朝にとってわずらわしい存在だった。
そんな両親の夫婦の始まりは、もしかしたら自分と薫のような出会いだったかもしれない。
独りでカジノを渡り歩いて、カジノでの勝負の瞬間だけに生き甲斐を感じていた自分。
カジノにいないときは、何をするにも考えるにも、無気力で、無関心で、無感動な自分。
―誰だって、そんなものだろう。
そう思っていた自分。このまま独りで生きて死ぬだけだと思っていた。
薫と出会ってからは、凍てついていた自分の心が氷解していくのを感じていた。
だから大介が、夕子の覚醒剤中毒を治したいと願ったときに、小島医師のもとに連れて行く助言ができたのだろう。
他人を感じていたい。できれば愛する他人を感じたい。