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29「あたし、クスリのために身体を売っている女だよ。大ちゃんの他の男にも平気で身体を売っている女だよ。何度もクスリをやめようとしたけれど、そのたびに誘惑に負けてきた女だよ。そんな女のために大金を出すなんて、大ちゃんはバカだよ……。大ちゃんは」
夕子は絶句した。ヒックヒックとすすり泣く声が響いた。
「大ちゃんは……優しすぎるよ」
夕子は顔をあげた。泣き顔で化粧が流れていた。
「優しいから怖いの。あたしに覚醒剤を初めて勧めた男と同じだもん。優しい男って、あたしのすべてを奪っていくんだもん。だから大ちゃん、あたしに優しくしないでっ」
大介は歩み出ると、しゃがみ込み、診察椅子に座って泣きじゃくる夕子を抱きしめた。
「覚醒剤をやめられたら、もう僕と会うのもやめればいいさ。誓うよ。夕子を施設に送ったら、もう僕からは連絡しない。二度と会わない。だから覚醒剤から抜け出してくれ」
抱き合った2人をぼんやりと眺めながら、正朝はマルボロの箱をグレー色のジャケットのポケットから取り出した。途端に小島の声が飛んだ。
「若造っ、ここは診察室だ。だから禁煙だ」
正朝は無表情でマルボロをポケットにしまった。小島が言った。
「タバコくらいにしておけ、若造。もっともタバコも勧められたもんじゃないがな。だが薬物依存症よりはましだ。ましてや覚醒剤なんて、もっての他だ。俺の最初のつまずきも、薬物だったからなぁ……」
正朝はマルボロをしまいながら、ふともらした小島の言葉に視線を向けた。
「聞きたいか、若造。なら話してやる」
小島は、診察椅子でカルテに何かを書き込みながら語り始めた。
「大きな病院には、多くの医薬品が置いてある。毒物、劇物指定の薬もある。もちろん徹底管理されていて、鍵がかけられている。医師でもめったには持ち出せない決まりだ」
小島はカルテに万年筆を走らせていた。矢羽根のペンクリップがついた万年筆だ。パーカーというブランドの万年筆だということくらいは正朝は知っている。
「モルヒネは知っているか。きわめて依存性の高い薬物だ。アヘンから精製される。麻薬だよ。主に末期のガン患者の疼痛を和らげる目的で使われる」
小島はカルテを書き終えると、立ち上がって机の上の棚に探し物を始めた。
「そのモルヒネが俺が教授を務めていた九州大学医学部付属病院の外科の医局から持ち出されていた。医師の許可、それも俺のような教授クラスの許可がないと持ち出せない薬物だ。誰が持ち出したのかという犯人捜しになった」
小島は棚から紙面を探し出した。紹介状だった。
「医局会議を招集してな。名乗り出ろと通達した。もちろんその会議で名乗り出る者はいなかった。懲戒免職ものだからな」
小島は、カルテをしまうと、紹介状にまたパーカー万年筆を走らせた。
「犯人は医局の若手医師だった。名乗り出たんじゃない。医薬管理室に薬品を取りに行った俺と出くわしたんだ。藍田という男でな。ちょうどモルヒネの容器に藍田が手を伸ばしているところだった」
小島は静岡の施設に宛てて、夕子のための紹介状を万年筆で書き続けた。
「藍田は29歳だった。年下の妻がいてな。その妻がモルヒネ中毒。つまり依存症だという。俺は入院治療を勧めた。だが医者の妻が薬物中毒と知れたら藍田は失職するのではないかと恐れていたんだ。そして藍田の妻をモルヒネ中毒にしたのは、藍田と知り合う前に付き合っていた暴力団関係者らしいと、藍田は告げたんだ」
小島は語りながら、紹介状の末文に自分のサインを書き込んでいた。
「俺は諭したよ。そのときも静岡の薬物依存症の離脱専門病棟を紹介した。藍田の妻を施設に送ったんだ。モルヒネ盗難は不問に付すと約束をしてな。ところが……」
小島は直筆のサインの上に、自分の印鑑を押すところだった。
「1週間もしないうちに、藍田の妻は施設を抜け出して失踪した。逃げ込むとしたら、彼女をモルヒネ漬けにして、金をせびっていた暴力団の男のところだろう。俺は藍田を説き伏せて、福岡市内にある暴力団の事務所に乗り込んだ。組長と直談判だ」
夕子のための紹介状の文面を小島は確認しながら、語り続けた。
「藍田の妻を返せという俺と、そんな女は知らないという組長の押し問答だった。そして俺は気がついた。その組長の声のしわがれ具合、ときおり押さえる腹部。顔色と体躯の痩せ具合。ガンじゃないかと疑われた。俺は組長に病院に来るように告げて帰った」
紹介状の直筆サインの上に小島の印鑑が押された。
「任侠だ、男の道だといきがっている組長も死ぬのは怖かったようだ。翌日、組長は病院に来たよ。そして検査の結果、ガンが見つかった。さっそく入院させた。患者となれば、善人も悪人もない。表の社会も闇社会も関係ない。俺は手術で執刀した。転移のある末期のガンだった。生存率は低かったが、俺は全力で治療にあたった」
紹介状は封筒に入れられた。
「皮肉なことに、その組長の手術後の疼痛を和らげるのにモルヒネを使った。俺たち医師が量と投与時間の調整をすれば、依存症にはならない。“モルヒネはこうして使うんだ”と俺は組長に言ったよ。組長はベッドから天井の一点を見つめていた。そして藍田の妻の居所を俺に打ち明けた」
紹介状の封筒に糊づけがされて、封緘された。
「俺は藍田の妻の隠れ住んでいるアパートを訪ねた。ヤクザ者と同居しながら、この夕子さんのように身体を売る仕事をさせられていた。金はヤクザが手にする。そしてモルヒネと交換だ。ヤクザのやり方はいつもそうだ。薬物の誘惑には手を出すな、若造いいな」
そう言って、小島は紹介状を大介に手渡した。
「この紹介状で静岡の施設に入院できる。お前が手配してやれ。夕子さん独りに任せるのは危険だ。覚醒剤の誘惑に負けて、施設から逃げ出すようじゃ、元も子もないからな」
受けとりながら、大介が小島に尋ねた。
「それで藍田さんの奥さんは、どうなったんです」
「未亡人になったよ」
「えっ」
大介が絶句する。小島がまた語り始めた。
「俺は藍田の妻を、無理やりアパートから連れ出した。その間に事件は起きたんだ。ヒットマンだ。つまり敵対する暴力団の刺客が病院に潜入して、組長を射殺しようとしたんだ。そのとき、俺の代わりに回診で組長のベッドを訪れていた藍田が組長の身体をかばって銃弾の前に出た。撃たれた藍田は即死だった。俺は藍田の妻には、そのことを知らせずに、また静岡の施設に入院させたんだ。今度こそ、薬物依存から抜け出して欲しくてな」
小島はボトルインクの瓶を棚から取り出す。
「病院は大騒ぎだ。俺の医局の部下が撃たれて死んだ。暴力団の組長を入院させたからだと、責任問題になった。医薬管理室から大量のモルヒネが紛失していたことも問題視された。死んだ藍田のせいにするのは簡単だったろう。だが俺はそうしなかった」
ボトルインクの瓶にパーカー万年筆のペン先を突っ込んで、小島は万年筆のねじを廻していた。インクを万年筆に補充しているのだ。
「すべての責任は自分にあると申し出た。病院は俺の辞表を受けとった。真相は闇のなかだ。それで済んだだけマシだったかもしれん。藍田の女房はな、治療を終えて3ヶ月後に静岡から福岡へ戻ってきた。そして亭主の死を俺の口から初めて聞いたんだ。泣いていたな。その顔は今でも忘れられん。だか彼女は立ち直ったのは確かだ」
インクを補充し終えた万年筆のキャップを廻して締めながら小島は笑った。