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20 4月23日、深夜2時。正朝はバカラのテーブルに立ち、カードをさばいていた。
松尾隆史はルーレットを廻していた。客はまばらだった。
門上大介はポーカーのテーブルで3人の客を相手に勝負を続けている。
正朝は、出勤前の午後8時に、いつものように甘味を口にした。アルデュールのマカロンだった。
それでも、胸が騒ぐというか、頭脳が明晰にならないというか、カードをさばく指先の感覚がにぶいことに、かすかな不安を感じていた。高めの湿度も気になった。
午後9時40分には控え室で着替え、午後10時からの1回目のディーリングに入った。
嫌な予感は当たってしまった。
店側の売り上げにつながる勝負ができなかったのだ。
ときにバンカーが勝ち、ときにプレーヤーが勝つ。その流れのなかで、客が張り込むチップを回収する。回収率は良くなかった。店側に負債が生じていた。金額にして250万円。
「次のプレーに入ります。バンカーとプレーヤー、お好きな方にお賭けください」
いつもは口にしない、そんな展開上のあおり言葉を口にしてみた。
「ニューベットどうぞ」
新しい賭けに張ってくださいというディーラーから客への合図の言葉だ。
テーブルに座っている客は7人。馴染み客が多かった。
ゴリさんは、上機嫌でウイスキー響のロックを飲み、フルーツの盛り合わせのなかからバナナを手にしては、もぐもぐと食べながら、チップを張っている。
ニコジさんが、珍しくカクテルのカルーアミルクを注文した。
パーカウンターの内側でカクテルを作っているのは髙野純平だった。夜番への志願がかなって、深尾店長から深夜勤務の許可を得ていた。ただし、ディーラーとしてではなく、バーテンダーとしての勤務だ。
この1週間でカクテルの作り方を猛特訓したらしい。
ジントニックやダイキリ、レッドアイ、ドライマティーニ、スクリュードライバーなどひと通りのカクテルは作れるようになっていた。
ゴリさんに響のロックを、ニコジさんにカルーアミルクを運ぶ。
正朝に笑顔を見せる。だが正朝は純平の挨拶には応えない。
カジノ店の従業員同士が目で合図を交わし会うこと、その行為そのものがいかさまを疑われるきっかけになってしまうからだ。
―そんなことも分からないで、あいつは。
正朝は、純平にいらだちすら覚えた。
ネズミ爺さんがビールを注文する。爺さんはそれが主義なのか高級酒を飲まない。カジノ店で賭け事を楽しむ客には、それぞれのゲン担ぎやプレースタイルがある。
いつもなら気にならないネズミ爺さんのビールやゴリさんのバナナが、なぜか気に障る。
―流れが読めない。俺の肩が狂ってしまっている。
正朝はいらつきを表情には出さないつもりで、カードを配する。
―それでも、俺のいらつきは身体から浮いて出てはいないか。お客にその心理を読まれてはいないか。
無表情を装いながら、正朝はカードをさばく。
「バンカー、フェイスカード。9」
フェイスカードとは、1枚目に引いたカードの表を見せることだ。ハートの6だった。
「プレーヤー、フェイスカード。2」
バンカー側も、プレーヤー側も、もう1枚ずつ引く展開になった。
2枚目のカードは、裏に伏せてテーブルに置かれる。まだ勝敗は分からない。
ゴリさんがニヤリと笑った。テーブルに座る残り6人に目配せをしたように見えた。
正朝は、テーブルの上を眺めた。
客から見てテーブルの奥にはbankerと記された枠がある。
テーブルの手前にはplayerと記されている。
客は自分のチップを、テーブルの奥に置き、バンカー側に賭けるか、手前に置き、プレーヤー側に賭けるか。ただそれだけを繰り返す。ゲームによっては客は賭けを見送ることがある。これは「ルック」と呼ばれる。様子を眺めるという意味だ。
ルックの客はいなかった。
7人の客のすべてが、バンカー側にチップを張っていた。オールバンカーだ。
なかでもゴリさんは80万円のチップを張っていた。ネズミ爺さんは20万円、ニコジさんが10万円。めったに高額を張らないニコジさんが10万円を張るのは珍しい。
残り4人の客も、それぞれ60万円、40万円、30万円、20万円と張っていた。
オールバンカーとなった場合、プレーヤーのカードはディーラーが開く。
客のように、ジワジワとカードを眺めるようなしぼりはしない。
いっきに、そして優雅にカードを開く。正朝はカードを開いた。スペードの6だった。
プレーヤーの合計点は8だ。
―勝った。
と正朝は心のなかで思った。客からは、
「あぁー」
「しまったばい」
と感歎の声があがった。だが、まだ勝敗はついていない。