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17「ふぅーっ。彼女?。そんなんじゃねぇよ」
正朝は、ニコニコと笑い続ける純平に煙を吹きかけて言った。
実際、薫がどこに住んでいるのか。どこの大学に通っているのか、知らないのだ。
「ニコジさん、まだねばっとうと。このまま夜まで、居残りかもしれませんねぇ」
控え室の監視モニターの画面を眺めながら純平が言った。
「どけんにせよ。ぬるかゲームば、まだまだ続きよるとですかねぇ」
純平が話しかける。正朝は返事をせずに、マルボロの煙を吐き出しながら、コーヒーカップを傾けていた。腹部の古傷が、チクリと痛んだ気がした。

午後10時、松尾隆史と門上大介が出勤してきた。その他の夜番勤務のディーラーもだ。
「この2、3日、夜は渋くてな。お前に帰ってきて欲しかとよ」
私服に着替える正朝に、制服に着替えながら隆史が言った。
「僕、来月、アンナマトッツォの夏のシャツが欲しいんだ。ネクタイも夏物に替えたいし、稼ぎが悪いと、新しい服が買えないよ」
やはり制服に着替えながら大介が言った。純平が質問した。
「大介兄ぃの狙っとる夏物のシャツって、なんぼするとですか」
「あぁ、12万円くらいかなぁ」
「うひゃあ、シャツ1枚で12万円ですか。俺にはご縁がなかとですたい」
純平の大げさな驚き方に、控え室の一同が笑いに包まれた。
皆んなが笑っているところへ、深尾店長が顔を出した。
「何をそんなに笑ってんだい。へぇ、大介君の服の値段ねぇ。大介君は、いつもスーツをビシッと決めているもんな。カジノのディーラーじゃなくて、まるで売れっ子ホストだな。ああ、そうだ正朝君……」
深尾店長は思い出したというように、着替えを終えた正朝に声をかけた。
「来週から、夜番に入ってくれ」
隆史と大介が、同時に、
「おぉ」
と声をあげた。
「昼の売り上げもぬるいが、夜の売り上げも渋い。正朝君の肩で、ゲームに活況をつけて欲しいと思ってな」
隆史が、
「また一緒に働けるばい」
とガッツポーズの握りこぶしを正朝に送った。
「正朝のカードさばきには、華があるからね」
と大介もニコリと笑った。純平が意を決したようにソファーから立ち上がった。
「深尾店長、お願いがありましゅ。マサ兄ぃが夜番に復帰するとでしたら、俺も夜番勤務にして欲しかとです。ディーラーやなくともよか。合力でも、いや何だったらバーテンでもやりますから、夜番に俺を回してください」
「ん……何でかね」
「俺、マサ兄ぃについていくと決めたとです。マサ兄ぃのカードさばきを間近で見て勉強したかとです」
「純平君のキャリアでは、まだ夜番は厳しいよ。でもまぁ、考えておこう」
「よろしくお願い申し上げます」
純平は丁重に腰を曲げて、深尾に深々と挨拶した。その大仰な仕草に、また控え室の一同が笑った。
正朝は夜番に復帰することに不安を覚えた。
―今の俺は、肩が良くない。
正朝は深尾から視線を外した。その一瞬の表情を深尾は見逃さなかった。
「正朝君、ディーラーは肩だけじゃない。華だ、華だよ。客を惹きつける所作、態度。そうした華が必要なんだよ。君は、その華を持っている」
深尾は、ポンと正朝の肩を叩いた。
純平はキラキラした眼で正朝を見ていた。
「マサ兄ぃ、夜番の復帰、おめでとうございます。さぁ、ラーメンば食べに行きましょう。今夜は俺に、おごらせてください」
正朝と純平は、中洲2丁目から春吉橋を渡って、春吉2丁目に向かった。春吉3丁目を通ったとき、正朝は小島医師がひそかに医院を開業している雑居ビルの明かりを眺めた。
午後10時30分を過ぎても明かりが点いている。
今夜も、あの夜の自分のように、表だって医者にかかれない誰かが、小島医師の患者として運ばれているのだろうか。窓のカーテンからこぼれる照明を正朝は眺めた。
「さ、さ。マサ兄ぃ、夜中の腹ふさぎはラーメンですばい」
はしゃいで先を急ぐ純平であった。
2人は『だるま』という、とんこつラーメン店に入った。
深夜にも関わらず、男女の客で店はごった返していた。賑やかな店内だ。