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16 少女のつぶやきを、正朝は聞き逃さなかった。聞いたことのない言葉だった。
正朝はそのつぶやきに、隣に立つ少女を振り向いた。少女も正朝の視線に振り向いた。
2人の目が合った。正朝は照れ隠しに少女に焼き餅を1つ差し出した。
少女は近づいてきて、恐る恐る焼き餅を受けとった。はにかんだように笑った。
正朝の背後には、博多ワシントンホテルプラザが建つ。博多川を挟んで向かいにハカタリバーサイドホテルが建つ。川幅は40メートルもない。連れ去られたウミネコのことなど関知せずとばかりに他のウミネコたちのニャァ、ニャアと鳴く声が響く。
少女は正朝から受けとった焼き餅を両手に、そのぬくもりを確かめているようだった。
ハッとしたように顔色が変わった。正朝の背後を見つめていた。
正朝はその異様な顔色の変化にとっさに背後を振り向いた。誰かが自分を狙っているのかと思ったのだ。だが人影はなかった。自分と少女しかいない。
「飢えている人、おおぜい……。私、食べられない、これ」
少女が見つめる先には路傍の地蔵がほこらに囲まれて建てられている。
「川端飢人地蔵尊」
電信柱に、赤い看板が掲げられ黒い文字で書いてある。
「川端飢人地蔵尊。福博八十八カ所。第三拾四番札所」
正朝は道幅3メートルにも満たない道を歩き、その地蔵に近づいた。
史跡の説明書きが、地蔵の石像のかたわらに立っている。
「飢人地蔵(うえにんじぞう)」は、享保17年(1732)、西日本を襲った大飢饉の際に、餓死し放置された人々を埋葬して地蔵を建て手厚く弔ったものです」
江戸時代中期の飢饉で餓死者が大勢あったらしい。飢えて死ぬ。その実感は現代の日本で共感しようにも、実感できないものだろう。
少女は震えながら、また言った。
「飢えている人、おおぜい……。私、食べられない、これ」
少女はぬくもりに喜んでいたさっきまでの表情から一変して、正朝に焼き餅を差し返した。正朝は不可思議な気持ちで、自分が渡した焼き餅を受けとった。
「ありがと、ごじゃいました」
少女が、たどたどしく言う。顔は悲しそうに曇っている。
「わたし、仕事あります。ありがと、さよなら」
日本人ではないのかもしれない。正朝がそう気がついたときには、少女は博多川沿いの道を中洲1丁目に向かって走り去って行った。
正朝は腕時計を確かめた。午後2時50分。正朝は少女が残したあん入り焼き餅を、口の端でちぎり食いながら、シャトーに向かった。
ぬるいゲームが続いた。午後5時、正朝はディーラー交代で控え室に戻った。
次の出番は午後7時からだ。控え室にあるコーヒーデッキから安い陶器のカップにコーヒーを注ぎながら、正朝はため息をついてソファーに身体を沈めた。
合力に着いていた髙野純平が、
「マサ兄ぃ、隣、よかですか」
正朝が返事をするより前に、ドカッと腰かけた。
「ぬるかゲームでしたもんねぇ。マサ兄ぃ、お疲れでしょう」
「2時間で10万円の店の売り上げか。今日は俺の肩がどうかしている」
「そげなこつ、なかですよ。マサ兄ぃのカードさばきは、うっとりするくらいスマートでしたもん。それより客がしょぼかぁ。ニコジさん、最高額で1万しか張らんと、まだねばっとうとですもん」
そうだった。ニコジさんをはじめ、客が高額を賭けない。
少額を賭けるバカラやポーカーやブラックジャックの台に、まばらに客が着いているだけだった。ルーレットは客が着かず、廻っていなかった。
「午後7時から1時間、そして1時間休憩して、午後9時から1時間。あがりは午後10時。
ねぇ、マサ兄ぃ。仕事あがったらラーメンば食べにいきましょうよ。俺おごりますけん」
純平なりに、正朝を元気づけようとしているらしかった。正朝はふふっと笑った。
「あ、いつも渋い顔の兄ぃが笑うた。笑うてくれたばい」
下心も何もなく、自分を慕ってくれる純平を可愛いと思った。
かつての正朝なら、そんな人間関係もうるさいと思ったことだろう。
―俺は、変わったのか。
心にゆとりが生まれたのか。日々を生きている実感が湧くようになったのか。
だとしたら……。
「薫か」
薫のおかげかと正朝は思った。
「薫?。誰です。マサ兄ぃのこれですか」
小指を立てる純平の頭を、正朝は平手でペシリと叩いた。
「図星ばい。ねぇ、兄ぃの彼女、俺にも紹介してくださいよ」
はしゃぐ純平に、正朝は黙ってマルボロの箱を空けた。純平が待っていましたとばかりに、自分の使い捨てライターで火を点けた。