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14「これ手にとってもよかですか」
薫が手にしたのは革紐とチェーン付きのイブニングバッグだった。革紐でショルダーバッグに、チェーンで手持ちのバッグにと使える小さなポーチのようなバッグだ。
全身が映る鏡の前で、イブニングバッグを手にポーズをとってみせる薫を、正朝は安らぎにも似た気持ちで眺めていた。
「似合うよ」
「えっ?」
「買ってやるよ。いくらだ?」
店員はにこやかに、それでいて尊厳を崩さずに正朝に言った。
「6万1950円でございます」
ジーンズの尻ポケットから財布を取り出す正朝に、薫は両手を振って制した。
「よかよ、よか。今日は見るだけたい。マサ君に買ってもらうなんて、そんなことうち、できんばい」
「良いんだよ。太宰府天満宮での凶のおみくじの厄落としだ。買ってやるよ」
「よかよ、よか、よか。いらんばい。ほら、もう陳列棚に戻したから、ねっ」
制止する薫に、正朝はたぶんその日に初めての笑顔を見せて、財布から金を取り出した。
2人の押し問答の末に、正朝が無理やり押しつけるようにそのバッグを買った。
渋い顔をしばらくは見せていた薫だったが、店を出た途端に小さくジャンプした。
「マサ君に初めて、プレゼントをもらった。うれしかーっ」
ジャンプしながら、買ってもらったばかりのイブニングバッグを肩から提げて、薫は走り出さんばかりに、はしゃいでいた。
愛か。愛じゃないのか。愛なら愛であってほしい。
そう思う正朝は、店を出てからもはしゃぎ続ける薫の後ろを歩きながら、薫の背中を黙って見つめていた。
陽が落ちた。2人は親富孝通りの角打、オカムラに行った。
正朝は麦焼酎の夢想仙楽を注文した。
薫もそれが美味しそうだと言って、夢想仙楽のグラスを手にした。
乾杯はしなかった。サッサと正朝がグラスをあおった。
「この店で、マサ君と会うたんやもんね」
薫はグラスを目の高さに持ち上げて、琥珀色の麦焼酎を電灯の明かりに透かして見た。
「女が1人で飲む場所じゃない。薫、どうしてあの晩、1人で飲んでいたんだ」
正朝の言葉に、薫は眉をくもらせて、掲げていたグラスを両手に抱いた。
「そいは聞かんで」
長い茶髪を右手で耳の後ろに流しながら薫は黙ってしまった。
薫が尋ねるなというのだから、それ以上の詮索はしない。
2人はグラスを空けると、親富孝通りの居酒屋料理店『振子』という店に移動して、刺身や、明太子や、もつ鍋を肴に真夜中まで飲み続けた。
2人が薬院のマンションに戻ったのは日付が変わってからだった。
翌日の昼過ぎに、正朝は目覚めた。昨夜はしこたま酔った。薫を抱くこともなく、2人でベッドに寄り添って、肌を合わせながら眠った。ときどき薫がしがみついてくる、正朝の身体は目覚めてからも、その感触を覚えていた。
目覚めたときに、薫はいなかった。
マルボロに火を点ける。小型冷蔵庫に貼り紙がマグネットで貼り付けられていた。
「昨日は本当に楽しかったです。マサ君からプレゼントされたバッグを持って、学校に行って来ます。今日も勝ってね。……薫」
多色のボールペンで、ハートマークや、ルイヴィトンのバッグを肩から提げた薫がはしゃいで歩いている似顔絵のイラストが描かれていた。
薫は大学生だと言っていたが、どこの大学に通っているのか。自宅はどこなのか。どんな家庭に育ったのか。知らないし、尋ねたこともない。今夜も薫は自分を訪ねて来るのか。
正朝は、ぼんやりとマルボロの煙をはき出しながら、ますますぼんやりと考えた。
本棚から広辞苑を取り出す。言葉の意味を調べるためではない。
「312ページ」
正朝はもそう声を出すと、右手の親指でパラパラと広辞苑を素早くめくった。
ピタリとページを止める。ページ表記を確かめる。314ページだった。
「くそっ、628ページ」
再びパラパラと広辞苑を素早くめくる。ピタリと止める。629ページだ。
「くそっ、酒が残っているからか。それとも……」
薫のことが気になるからなのか。正朝はまた自分に宣言した。
「1286ページ!」
目を閉じてページを素早くバラバラと繰ってゆく。ピタリとページを止める。
「ふぅっ……」