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12 正朝は丁重に断った。
「何ーんね、気取っとうばい。俺の酒が飲めんとか」
ゴリさんはグリーンの羅紗テーブルを拳で叩いた。負けが80万円ほどにかさんでいるのも、正朝にからんだ理由かもしれない。バカラの席についている他の客がなだめる。
「まぁまぁ、落ち着いて。あんしゃん、飲み過ぎばい」
「何ーんを言っとうか。俺に逆らう気か」
酒が過ぎると、こういう客も現れる。黒服の1人が動いた。
黒服はチーフと呼ばれている。普段はギャンブルの監視員だ。
「お客様、お酒が過ぎていらっしゃるようです。あちらのソファーで少しお休みになったら、いかがでしょうか」
黒のスーツ、白いシャツに黒のネクタイ。言葉は優しいが、凄みがある。
「ういっ、離さんか。俺のチップはどこね?」
黒服がゴリさんのチップの山を持って、ゴリさんの腕を取り、店内のソファーに運んだ。
「うおっ、うおっとぉー」
ドサリと深くゴリさんの身体は、ソファーに沈んだ。
しばらくすると、ゴリさんは眠り込んでしまった。
手にはバナナを皮をむきかけたまま、握っていた。いびきが聞こえてきた。
正朝のディーリングはその後も淡々と進み、午後10時を迎えた。
控え室には松尾隆史たちが夜番の着替えに訪れていた。引き継ぎの言葉を正朝はかけた。
「ゴリさん、80万の負けで居眠り中だ。起きたら挽回しようとやっきになって、賭けてくるかもしれない。あまり興奮させないように気をつけろ」
正朝のアドバイスに隆史が答えた。
「分かった。傷の具合はどげんね」
「もうすっかり良い。はやく夜番に復帰したいところだ」
ディーラー仲間の門上大介は、私服のスーツをハンガーに掛けてブラッシングをしながら、正朝に言った。
「僕も深尾店長に、正朝の復帰を相談しておくよ」
大介のスーツはイタリアのアットリーニ製で1着80万円はする。シャツはルイジ・ボレッリ製で6万円。ネクタイはマリネッラ製で4万円。靴はステファノ・ブランキーニ製で40万円を超える。大介の趣味は服飾で、お洒落が命という生活なのだ。
「また正朝と仕事を終えてからの、夜明けのカクテルを傾けたいしな」
キザに聞こえるこのせりふも、大介が言うといやみに聞こえない。それほどに、お洒落がさまになっている男だ。
「あぁ、そうだな。またカクテルバーに誘ってくれ」
正朝はディーラー服に着替える大介の肩をポンッと叩いて、シャトーを出た。
中洲を後に、ブラブラと天神の公園を通り抜けて、西鉄福岡駅前に出る。
そこから西鉄線の高架下を歩いて、薬院のマンションに帰る。午後10時30分を過ぎた。
「ねぇ、マサ君。今日は勝ったと?」
マンションの玄関に座り込んでいた薫が、正朝の姿を見つけて立ち上がった。
ルイヴィトンのバッグを地面に置いて、正朝の身体に飛びついてくる。
「お前、ここでずーっと俺を待っていたのか」
「あったり前たい。うち、ずーっとマサ君の帰りを待っとったとよ」
正朝は薫を連れて部屋に戻った。薫が身につけているコロンの香りが部屋に広がる。
昨日とは違うプラダのスーツを着ているのだから、薫は自宅に帰っているのだろう。
だが今夜もまた正朝と過ごすために、待ち続けていたのだ。
薫は何が欲しいのだろうか。正朝に惚れたのだろうか。正朝と同じように虚無な日常を肉体を合わせることで、世間に蹴散らすつもりなのだろうか。それとも薫には、正朝への愛があるのだろうか。だが、そんなことを考えるのは今じゃなくても良い。
2人は激しく身体を合わせ、夜は閑かに流れていった。

4月15日の正朝は非番だった。週に2日の休みだ。マンションの部屋で昼過ぎに起きた。
それでも、テレビを点けて天気予報を見た。湿度をチェックした。癖だった。
薫が台所に立っていた。卵を割る。フライパンに落とす。きざんだタマネギとトマトを混ぜる。そうしてできあがった半熟のオムレツを器用に皿に盛りつけた。
レタスをちぎる。大根とキュウリを刻む。これでサラダができた。
フランスパンが用意されていた。焼きたてのバケット、つまりフランスパンにニンニクをすりつけ、バターを軽く塗る。ベーコンをフライパンで炒める。
オムレツとサラダと焼きベーコンとガーリックトーストの朝食、いや昼食メニューが並んだ。
「マサ君の好き嫌い分からんから、当たり前のメニューにしとう。さぁ、食べんね」
正朝に昼食を勧めながら、薫はどこで買ってきたのか、ドリッパーにコーヒー豆をセットして、レギュラーコーヒーを淹れる。コーヒーの香りが部屋を満たす。
正朝は取り出しかけたマルボロを箱に戻した。タバコの臭いで、薫の用意してくれた食事とコーヒーの香りを邪魔したくない気分だった。