(9)

9「にぃさん。どこかの組のヤクザ、それともただのチンピラ?」
声をかけてきた女は、かなり酔っていた。長い髪を茶色に染め、シャネルのスーツを着ている。角打のテーブルにはルイヴィトンのバッグが置いてあった。
正朝は何とも返事をしなかった。ただ、焼酎をあおった。
「そうやって、黙って飲んでいるところ、格好よかね。殺気を消す殺し屋みたい」
からんでくる女を、正朝はうざったいと思った。金を支払うと、角打を出た。
「あたし、今夜行くとこなかもん。一緒に飲もう」
路上に出た正朝を、女は追いかけてきた。正朝は黙殺して早足に歩いた。
親富孝通りを南へ、そしてけやき通りの交差点に向かう。
「きゃぁーっ」
悲鳴が聞こえた。振り返ると、女がからまれていた。チンピラ風だった。2人いる。
背の高い男と、やや太った男の2人だった。
「よぅ、おねぇしゃん。一緒に飲もう」
「よか感じで酔いちくれて。よかろうが、行こうや」
正朝は、そのまま通りを渡って去るつもりだった。
女がどうなろうが知ったことではない。自分には関係ない。
「助けてーっ」
女は正朝に向かって声をあげ続けた。男たちのどちらかが言った。
「おねぇしゃんの王子様は、俺らが怖くて、ブルって逃げよるばい」
はははと笑い声が聞こえた。正朝は足を止めた。女を助けようという気持ちではなかった。チンピラ男たちが、自分を笑ったことが許せなかった。
「おっ、戻ってきよるばい」
「そげんに痛か目に遭いたかか」
あはは、と2人はまた笑った。背の高い男がいきなり右拳を突き出してきた。
正朝は左上腕で相手のパンチを払うと、右正拳を突いた。
「うぐっ」
背の高い男はみぞおちに正朝の正拳をくらって、腰を折った。そのまま倒れた。
「こなくそっ」
太った男が両腕で正朝のコートをつかんだ。柔道の心得があるらしい。
だが、正朝も空手の有段者だった。両腕で男の組み手をほどくと、左ひざでするどく蹴りを入れ、さらに自由になった右手で正拳を相手の鼻に突き入れた。
「ぶはぁっ」
鼻から血しぶきをあげて、太った男はのけぞり飛んだ。2人とも倒れて動けない。
しばらく沈黙が流れて、立ち尽くしていた女が正朝の腕に両手で飛びついてきた。
「強かね、にぃさん。やっぱ、どこかの組におる人?」
「俺はヤクザじゃねぇよ」
マルボロをコートのポケットから取り出した正朝に、女はライターを取り出して火を点けた。カルティエのライターだった。
「チンピラでもねぇつもりだけれどな」
口にくわえたマルボロを、女はさっと奪って、自分の口にくわえた。
正朝は、くるりと背を向けると、けやき通りの交差点に向かって歩き始めた。
女が追ってくる。早足で追ってくる。
正朝は走って逃げはしなかった。追ってくる女を無視して黙って歩いた。
今泉の街を抜け、もう薬院の自宅マンションにたどり着く。
「帰れよ、あんたにも帰る家くらいあるだろうが」
「うち、帰るとこなかもーん」
女がルイヴィトンのバックをブラブラと振りながら、ふくれっ面を見せた。
正朝はオートロック式の玄関を通り、女を玄関の外に置き去りにして自宅に戻った。
薄青いコートを脱ぎ、黒いシャツ1枚になった。
しばらくして、玄関のチャイムが鳴った。301号室。女には部屋番号は知られていないはずだ。オートロック玄関の開閉スイッチのついた受話器をとった。
「帰れ」
とひと言のつもりだった。ドアホンから女の声がした。
「うち、帰るとこない。泊めて……」
いきなりドアをドンドンと叩く音がした。