(8)

8「くっくっくっく。女房持ちは苦労するばい。くっくっく」
正朝は、笑いの輪に加わらず、淡々と残りの3ゲームを進行させた。

午後10時を過ぎて、正朝はシャトーを後にした。
夜番として出勤してきた松尾隆史と着替えをする控え室で、軽くハイタッチをして挨拶を交わした。隆史が尋ねた。
「どげんね、傷の具合は」
「まぁまぁってところだ」
正朝は、あいまいな返事を返した。実際、痛みはなくなっていたし、完全復調と言ってもいいくらいだ。でも、はしゃぐ顔は見せなかった。
「そいやったら、よかと。早く夜番に復帰してくれんね。また一緒に働こうや」
「ああ……」
無機質、無表情、無感動、あと無がつくのは何だったか。それが正朝という人間なのだ。
悪気はない。だけど、生きていて、感動した経験などない。
友情なら感じている。隆史が刃物を止めてくれていなければ、刺し傷はもっと深かっただろう。感謝はしている。
だが、傷が深くて死んだとしても、それはそこまでだと受け入れる気持ちもある。
生きている実感が持てるのは、ディーラーとして客と賭博の勝負をしているときだけだ。
隆史は感情をあらわにする。笑うときも、怒るときも、泣くときも豪快だ。
生きてきた道が違うのかと思う。今の日本で大笑いできるほどの出来事はあるのか。
そんなふうにも思う。革ジャンを脱ぎ、白シャツとベストに着替える隆史に別れの言葉を返しながら、正朝はシャトーの店を出た。
薄いブルーのスプリングコート。黒いシャツ。ブルージーンズ。白いモカシンの靴。
ホテルの脇を通って、中洲4丁目から福博であい橋を渡る。西中洲の公園地に出る。さらに小さな橋を渡るとアクロス福岡のビルが建つ天神中央公園だ。正朝は人気の少ない公園の緑地を通って歩くのが好きだった。公園の沿道には、とんこつラーメンの屋台が並ぶ。
初めて福岡の街にやって来たとき、この屋台の煮るとんこつの臭いにムッとむせたものだった。今では、その臭いにもすっかり慣れてしまった。
福岡市役所と福岡中央警察署の間の道を進む。博多大丸のビルを脇に過ぎれば、目の前に西鉄福岡の駅がそびえる。ここから1駅の薬院が正朝の住むマンションのある場所だ。
正朝は電車に乗らず、ふだんは西鉄の高架下の道を薬院駅まで歩いて帰る。
人通りの少ない道を選んで歩くのが性に合う。
中洲からなら、小島医師の闇クリニックのある春吉の街を抜ける道を歩いた方が近い。
わざわざ天神の街に出るのでは遠回りになる。
それでも正朝は、公園地を抜け、天神の街を歩き、薬院と中洲を往復していた。
シャトーに向かうときには、自分の心にスイッチを入れる。そのために遠回りの道を往く。勝負を終えて薬院のマンションに帰るときには、昂ぶった精神を落ち着かせる。そのために遠回りの道を帰る。
それが正朝のなかでの自分に課したルールのようなものだった。
西鉄福岡駅から薬院までは、徒歩15分ほどの道のりだ。
だが、この晩の正朝は真っ直ぐにマンションには帰らなかった。
西鉄福岡駅。通称、天神駅の裏側。天神町、舞鶴町を通って長浜に抜ける道。親富孝通りに向かった。
本来は天神万町通りというのだが、70年代に予備校への通り道であったことや、中洲ほど金のかからない歓楽街で、安価な酒場などに学生がたむろしたことから、親不孝通りの愛称がついた。
長くこの名で呼ばれていたが、地元商店街が「不孝」の文字づらはイメージが良くないということで「富孝」と文字を代えて、愛称として定着させようとしたのだ。
正朝は親富孝通りの角打に向かった。
角打とは、酒屋が店内の一角を提供し、本来は試し酒を楽しむ場所である。つまり立ち飲み酒場だ。店舗というよりコーナーであり、気取ったサービスはない。
正朝はオカムラという酒店の角打にぶらりと入った。暖簾すらない酒屋のカウンターである。麦焼酎の夢想仙楽を注文する。シェリー酒の熟成に使用されていた樫樽をスペインから取り寄せ、大麦仕込みの焼酎を5年以上、貯蔵、熟成させた琥珀色の焼酎だ。
正朝はコートのポケットからマルボロを取り出す。火を点けた。それからグラスの焼酎をあおった。
「あぁ……」
とつぶやく。
何に対して、あぁなのか自分でも分からない。
昼番のバカラの勝負がぬるかったことへのため息か、それでもカジノに復帰できた安堵への感歎か。緊張を身に包み、ディーラーを今日もやり遂げた、その緊張感からの開放の吐息か。
正朝は2口目の夢想仙楽のグラスに口をつけた。オカムラ酒店の女将が、
「春のもん。ちょこっとだけれど食べてくれんね」
と別のグラスを正朝に勧めた。水を張ったグラスに白い稚魚が泳いでいた。
「躍り食いしてくれんね」
シロウオだった。ハゼ科の魚の一種だ。
福岡市西部の室見川で取れる早春の味の風物詩だ。やな漁という仕掛け網で獲る。生きたままの、のどごしを味わう、だから踊り食いをしろと女将は勧めたのだ。
ささやかな命が正朝ののどをビチビチと踊りながら通って落ちる。
また焼酎をあおる。それだけの時間に正朝はわずかな安らぎのようなものを感じた。