(5)

5 4月7日。初めての昼番勤務に正朝は就いた。午後2時45分に控え室に着替えに入った。
「あっ、おはようございます。マサ兄ぃですよね。お名前はかねがね。俺、髙野純平といいます。肩はまだまだですけれど。兄ぃ、色々とご指導お願いします」
純平は、憧れをたたえたようなキラキラした目で正朝を見つめ、大げさに90度に腰を曲げておじぎをした。正朝は無言で苦笑した。この道に入った若き日をふと思い出した。
武内正朝は、サラリーマンの家に生まれた。父は東京から広島に転勤していた。
だから正朝は広島で少年時代を過ごした。中学時代は神奈川県の横浜で過ごし、高校時代は東京で過ごした。だから福岡では、自分はよそ者のような気がする。
母親は専業主婦だった。お嬢様育ちの世間知らずで、正朝にはいつも勉強をしなさいと口やかましく言うだけだった。正朝の成績はずば抜けて良くはなかったが、悪くもなかった。エリートサラリーマンの父親が東京本社勤務となって、家族が通勤圏の千葉県に引っ越したとき、正朝は京都の大学に入学した。独り暮らしを始めた。
将来に何かになりたいという希望もなく、父親のようなエリートでもなく、自分は適当な企業に入社して、適当に人生を歩んで行くんだろうと思っていた。
無気力、無関心、無感動な自分がいた。でもみんなそうだろうとも思った。19歳だった。
観光地、京都の、それほど有名でもない料亭で皿洗いのバイトをしていたときに、大学の同級生から誘われた。その同級生は放課後にカジノのディーラーをしていたのだ。
「皿洗いより、儲かるバイトがあるぜ。最初は時給1000円くらいだけれど、技術が身につけば、月収100万円を超える奴もいるんだぜ」
大学の放課後、その同級生の家に行って、バカラのルールを覚えた。
ポーカーやブラックジャックなら知っていた。バカラはすぐに覚えられた。
「カジノって分かるだろ。日本じゃ金を賭けるのは違法だ。でもパクられなければ良い金になる。俺が店長に紹介してやるよ。そのうちに慣れるだろう」
勤務地は大阪のミナミだった。京都からは電車で40分ほどで通える。
最初はシャッフルさえまともにできなかった。どうにかバカラのカードをテーブルに配れるようになった。店へ出た。白いシャツ、黒のベスト、蝶ネクタイ。
無我夢中でバカラ賭博の客の相手をした。その店は夜だけの営業だった。
一晩で1000万円負けた。つまり客たちが1000万円を儲けたことになる。
1000万円はカジノ店の負債だった。正朝はあ然とした。自分のせいで店は1000万円を損したのだ。ミナミのカジノ店の店長は時給の1000円を6時間分、6000円、正朝に手渡しながら言った。
「賭博は勝負の波がこちらに来るか、向こうに行くかや。1000万円分の夢をお客様に味わっていただいたということやな。明日は1500万円をこちらがいただくかも知れへん。店が勝ってばかりやと、お客様もご来店くださらなくなる。金は天下の廻りもんや」
その言葉に正朝がホッとしたときだった。
「なぁ、アンチャン。これから1週間続けて負けたら、あんたクビや。いかさまやるんやのうて、自分の肩で、思い通りの目を、そう勝ち目を、つまりカードを引き出せるように肩を磨かんとあかんで」
ギロリと正朝はにらまれた。始発電車で大阪から京都に帰った。
下宿に帰るなり、大学にも行かずに、テーブルの上にカードを置いては、シャッフルやカードをひら置きに並べるテクニックや指先の感触で、いま何枚目のカードを自分が手にしているかなどの練習に夢中になった。その日は眠らなかった。
2日目の勤務では、正朝は人が変わったように積極的にカードをさばいた。
バカラで、気がつけば1200万円勝っていた。もちろん個人の勝利ではない。店の収入だ。
それでも店長は6時間勤務6000円のバイト料に1万円の特別報酬を足してくれた。
生きている実感は……ない。将来の夢も……持っていない。
ただ、カジノでカードをさばくとき、自分でもアドレナリンがあふれ出るのを感じた。
客も賭博にそんな興奮を感じるのだろう。だが自分は生きている実感そのものを感じるのだ。
才能があったのだろう。いかさまはやらないが、手品師のようなカードさばきで、今夜はいくら勝つか、それとも客に勝たせてやるか。コントロールできるようになっていた。
半年が過ぎたとき、大阪ミナミのそのカジノ店で、正朝はいつしかナンバーワンのディーラーに成長していた。京都の大学は辞めてしまった。ただカジノに生きる道を見つけた。
半年後、正朝は引き抜かれて大阪の別の店へ務めた。それからは引き抜かれるたびに報酬が上がった。大阪を離れて、広島へ、札幌のススキノにいたこともある。
福岡の中洲にやって来たのは半年前のことだった。
夜番を務めていた2ヶ月前の月収は100万円を超えていた。
正朝は純平に微笑み返すだけだった。技術を教えてやるとは言わなかった。
見て、学ぶ。それが上達のコツだと思っていたからだ。
正装に着替えた。蝶ネクタイを整えて、控え室からゆっくりと昼のフロアに出て行った。

テーブルの上に5枚目のカードが配られた。武内正朝は無機質な声で静かに言った。
「ワンモア・プレーヤー」
正朝はテーブルについた6人の男たちの顔を右から1人ずつ、しっかりと見廻していった。楕円形のテーブルには右端に3人、左端に3人が座っている。
正朝の視線に、にらみ返すような鋭い目を返す男もいたが、じっと5枚目のカードに視線を釘付けにして、彼の視線には気がつかない男たちがほとんどだ。
バカラは丁か半かの博打に似て、パンカーかプレーヤーかのどちらかに賭ける。
バンカーを訳せば銀行だが、バカラにおいては親という程度の意味だ。
同じくプレーヤーを訳せば、競技者だが子という程度。親か子か。右か左か。そのどちらかに金を賭けるのだと思えばいい。
バンカー側が勝つか、プレイヤー側が勝つかを予想する。
つまり仮想の賭博者のどちらが勝つかを予想して賭けるに過ぎない。
勝負はカードの合計点が「9」に近い側の勝ちとなる。
プレイヤー側、バンカー側にそれぞれ2枚ずつカードが配られる。
この2枚で、どちらかの合計点が8点、あるいは9点の場合、即座にゲームは終了だ。 点数の多い方が勝利となる。 これをナチュラルと呼ぶ。