第三話 「一本桜」(90)

「おいっ、こっちだ。文蔵の死骸もここに倒れている。気絶した一味には縄をかけろ。それから十名ほど、こちらに参れ。この桜の樹の根元を掘りさげろ」
円朝の推測の通りに、桜の樹の根元から千両箱が次々と掘り出された。
「鍵は朽ちている。叩き壊して開けっ」
圭之介が命じた。
がしっ、と音を立てて、千両箱は開いた。
ところが。
箱のなかには何も入っていない。
二つ目、三つ目、五つ目の箱も中身は空っぽだった。
「最後の千両箱だ。開けるぞ」
あった。箱のまん中にそれは宗助の宝に違いないものが納められていた。
珊瑚のかんざしが、たった一つ。最後の千両箱のまん中に置かれていたのである。
「何だ、これはっ。文蔵は、こんなものを狙ったというのか」
取り出し、手に取った圭之介ががく然として言った。
捕り手たちの誰もが、圭之介の右手に握られた珊瑚のかんざしを見入った。
そのかんざしを、ひょいと左手で円朝はひったくった。
「たから……か。まったく、生涯の宝もんに違ぇねぇ……」
「何だ、円朝。さては仔細を知っているな。話せ」
「なぁ、圭之介。その前に頼んでいいか」
「頼みとは何だ、円朝」
「俺を弘庵先生んところへ運んでくれ。それからな」
「うむ、何だ、言えっ、円朝」
「気絶していいか」
「何っ……」
圭之介が返事をしようとしたときには、円朝はかんざしを握ったまま気を失っていた。
「戸板を早くっ。円朝を浅草田原町、医師、弘庵宅へ運ぶ。仕度をせいっ」
圭之介は大声に呼ばわった。気を失った円朝は眠った幼子のような安らかな顔だった。
桜は散り、初夏の風も吹き、そろそろ初鰹が日本橋の河岸に届こうかという陽気である。
圭之介の左腕の傷は癒え、朝早くから市中見回りに歩いている。
隣に歩くのは円朝であった。
「まだ隠していることがあるのではないか、円朝」
右腕を三角巾で吊るし、晴々とした顔で円朝は圭之介の隣を歩いている。
「いや、もうすべてを話したぜ。観音開きの宗助さんは、久保田屋から盗んだ二万五千両は、江戸市中のお助け小屋にでも配ったか、海へでも捨てちまったかだってことに落ち着いたじゃねぇか。それで謎は解けただろう、圭之介」
「うーむ、老いぼれ鼠の儀右衛門はどこにいるのか。お千恵とお千佳はどこへ消えたのか。それに宗助の行方とてまだ分からぬ。分かったのは文蔵が集めていた手下どもは、にわか雇いの無宿者や浪人ばかりだったということだ。小吉、好造は捕縛した。偽岡っ引きの助造も捕らえた。文蔵が死んでしまったとなれば、水戸藩との関わりの証拠とて、もはや町方には手を出せん」
圭之介は、むすっとした顔で歩きながら言葉を着いた継いだ。
「円朝、右肩の傷はもう良いのか」
「ああ、弘庵先生はまったく名医だな。本当は三角巾を外しても良いそうだ。寄席を半月も休んじまった。俺ぁ今夜っからまた高座にあがるぜ」
円朝もまた言葉を継いだ。
「お前の左腕の傷だって、あっという間に治っちまったじゃねぇか。それに卯之吉のご隠居さんの胃の腑の具合も快復しているそうだ。そうそう、これから向かう竪大工町の長屋の瀧本正太郎大家さんのロイマの具合も良くなっているそうだ」
神田の町の往来へ出る。和泉橋を渡る。柳原の土手が橋の下に見える。
橋の下に掘っ立て小屋はもうない。神田松下町の往来で、
「えー、親孝行でござい」
声がした。円朝が目をやると、張り子の老人形を背負って、親孝行商売をしている中年の男が町行く人々に声をかけていた。小泉町、岩本町と二人は歩いていく。
やがて竪大工町に着いた。
路地を曲がる。裏長屋が並んでいる。正太郎店の長屋が眺められる道にたどり着いた。
圭之介は、懐から取り出した。珊瑚の五分玉のかんざしであった。
「そいつをどうするんだい、圭之介」
「ふむ、大工の久米吉に返してやろうと思ってな」
「そいつぁ、よした方がいいぜ、圭之介」
「なぜだ。証拠の品としてももはや用済みで払い下げられたかんざしだ。一両以上の値が張るとなれば、久米吉には財産であろう。それにお千恵の無事も知らせられる」
「あぁあ、分かっちゃいねぇなぁ。それじゃ久米吉さんの生きる張り合いがなくなるぜ」