第三話 「一本桜」(91)

「どういうことだ、円朝」
「お千恵さんはな、帰りたくても帰れねぇんだ。文蔵一味はもういないと知っていても、その文蔵に身体を奪われた心の痛みが癒えねぇ限り、久米吉さんには合わせる顔が、何より心がねぇんだ。お千恵さんはな、たった三日に生涯を生きたんだ。ほれ、見ねぇ」
円朝が、あごで指し示した長屋の出入り口を、久米吉が大工箱を抱えて出て行くところだった。
「お千恵っ、行って来るよっ」
今朝も久米吉のあいさつが長屋に響く。
「久米吉さんもまた、たった三日に生涯を生きたんだ」
久米吉は後ろ姿を円朝と圭之介に向けて長屋の路地をまっすぐに駆けていく。
「そのかんざしを返すなんざ、圭之介。お前ぇは、女心が分かっていねぇなぁ」
「何っ、円朝。ではお前は女心が分かるのか」
圭之介はむっとして言った。円朝はすっと圭之介の手から珊瑚のかんざしを抜き取ると、
「分からねぇ。俺にもとんと女心は分からねぇよ」
ぽんぽんと左肩に珊瑚玉をはずませてみせた。くるり圭之介に背を向けると、
「だから惚れちまうのよ、女ってぇやつにな」
路地を引き返してまた江戸の大通りに向かって歩き始めた。 取り残されて圭之介は、路地に立ったまま円朝の背中が遠ざかっていくのを眺めていた。
春が過ぎ、青葉が目にまぶしい江戸の初夏であった。

終わり