第三話 「一本桜」(88)

声をあげたのは源太郎であった。平次郎の擦りあげ袈裟斬りの兇刃は、瞬時に体を入れ替えた円朝によって、味方の源太郎の背を斬りあげてしまったのである。
どうっ、と声もあげず源太郎は地に倒れた。おびただしい血が地に広がる。
双子であろう兄が自分の剣で斬られたというのに、平次郎はなおも無表情だった。
しゅん、しゅんと擦りあげ剣が円朝を襲う。
円朝はしびれた右手をそのままに、左手で兼光を握り、平次郎の地から襲ってくる剣をかわして、後ろに下がり続けた。
「擦りあげがあがり切ったところが隙だ。だが、こいつが上段から下段に戻す剣さばきは素早い。まともに踏み込めば、上段からの返し剣で殺られるかも知れねぇ」
下がりながら、円朝は背中の気配にもうひとりを察していた。
隙あらば、背中から斬りかかろうとしている気配だ。そう、文蔵であろう。
円朝は目の前の平次郎を見つけたまま、低い声で背中に向かって言った。
「相変わらず、卑怯なやり口で来やがる。文蔵の頭目さんよ。斬るなにら斬るで、背中からでも見当つけて斬って来な」
「ふん、俺にしゃべらせて、俺の居所を背中に確かめるつもりたぁ、なるほど噺家はしゃべるばかりじゃなくて耳まで澄ませて、間合いをはかるってか。だがな、俺がしゃべるのはいま、この一回きりだぜ。ふふふ、いまから場所を変える。足音だってたてやしねぇ」
その言葉通りに、フッと背中にその気配まで消した文蔵だった。
円朝は目の前に迫る平次郎との間合いをはかる他に、文蔵がどこから斬りかかってくるかにまで、気を配らなくてはならなくなった。平次郎が迫る。間合いを詰めては円朝に下段からの擦りあげ斬りの剣を振るう。そのたびに円朝はぎりぎりの間合いで、平次郎の切っ先をかわす。後ろに下がり続ける。円朝は背中に、しだれ桜を感じた。枝が垂れ下がり、桜花をつけている。心に秘めて、円朝はとっさに動いた。
「これだっ」
くるりと振り返ると、満開のしだれ桜の樹に向かって突進したのである。
幹に体当たりをくらわせた。途端に、枝がしなり、ざわざわと揺れた。満開の桜花のなかには枝を離れ、ハラハラと風に散る花びらもあった。
「うぬっ」
平次郎は、その枝を払おうと剣で斬りつけた。桜花が目の前をふさいだ。
擦りあげ斬りの剣は、宙に一瞬だが留まったのである。
「いぇい」
気合いもろとも円朝は自分が下段からの擦りあげ斬りを平次郎に見舞った。
「だふっ」
峰打ちの円朝の兼光の剣が、平次郎の身体を脛から腹部を通り、肩まで擦りあげた。
打撃を受けて、うずくまった平次郎の頭部を、円朝は上段から左腕一本で撃ち込んだ。
「ぐっ」
どさりと平次郎が桜の下に倒れた。
峰打ちとはいえ、真剣の重さは平次郎を気絶させるに充分だった。
倒れた平次郎の身体を、舞い落ちる桜花がハラハラと覆った。
「助かったぜぃ、しだれ桜さん」
桜の樹を背に、ふぅと息をついた円朝であった。
と、スンッと幹の後ろから兇刃が突き出された。
「ぬっ」
円朝は斬られたばかりの肩に突き刺さる刃を感じた。
ドッと先ほどより激しく、円朝の肩から血しぶきが飛んだ。
「ふははは、平次郎を討ち取って、安堵したのが手前ぇの落ち度よ。それだけの深傷を負わせりゃ、もう剣も握れめぇ」
高笑いをしながら桜の背後から現れたのは五寸釘の文蔵だった。
すいっと円朝の正面に立って、文蔵は正眼に構えた。
「あの世へ送ってやる。手前ぇの死骸には額に五寸釘を打ち込んで弔ってやるぜ」
「やはりこの屋敷を狙いやがったか。東海道や江戸市中で人殺しまでして大金を強奪する手前ぇの了見が気にくわねぇ。何だって、そんなあこぎなことを繰り返すんでぃ」
「ふふ、手前ぇのような噺家風情には分からぇことよ。京で俺ぁ公家様を通して御門様の勅命を受けたんだ。俺は御門様の攘夷のお志を遂げるために三万両を献上するのよ」
円朝は肩から血をしたたらせ、意識が遠のくのを感じながら文蔵に言った。
「血で汚れた金など、御門は喜んで受けとらねぇだろう。了見違ぇもはなはだしいぜ」
「ふん、御門様が受けとらなくても、尊皇攘夷の志士たちは喜んで受けとるさ。もっとも三万両は、もう仕度が出来たがな」
「何っ、ではなぜ殺し盗人を繰り返すんでぃ」
「ふはは、俺は世直しの志士だからよ。夷敵が来ているってぇのに、のうのうと儲け商売なんぞしていやがる馬鹿どもには、天誅を加えてやるのが、この世に選ばれた志士の俺の役目だからよ」
「それは違う。まっとうにその日を送っている人々を守ってこそ、志を持つ者になれるはずだ。文蔵、手前ぇは間違っている。曲がった志のためなら、人の命も、人の運命も、人の金も思いのままにしていいという了見は、間違っている。天誅を受けるのは手前ぇだ」
「黙れ、宗助のじじぃが隠した二万五千両、この桜屋敷に眠っている。くたばりぞこないのじじぃが使うなんざ、金の無駄使いだ。死ぬまでに使い切れねぇだろうよ。それなら、攘夷の志のために使ってやる方が天下のためだ」
円朝の右肩からの流血はおびただしい。
「死ね、円朝っ」
文蔵が斬り込んできた。上段からの袈裟斬りだ。