第三話 「一本桜」(86)

「そいつぁ、良かったな。お前ぇさんも早く巧ぇ噺家におなんなよ」
と円朝は前座に答えた。
「はい、師匠。いつか師匠のおこしらえになった芝浜の噺をあたくしに稽古をつけてやっておくんなさいまし」
「ああ、湯島の俺の家を訪ねて来るがいい。稽古をつけてやろう」
「えっ、はい、あ、ありがとうございます」
立っていた前座が、ぺたりと楽屋にあわてて座り、両手をついて頭を下げた。
「何だい、師匠。この前座が不始末でもしでかしたかい」
楽屋に現れた満川亭の主人、宗兵衛が円朝に声をかけた。
平身低頭している前座を見て、円朝に尋ねたのであった。
「いや何、あたくしにもこんな若ぇ、一途な時分があったなぁってぇ、それだけの話でございますよ」
答えた円朝に、宗兵衛は、
「師匠はいつだって、いまだって一途じゃないかね」
笑って言った。宗兵衛は、
「そうだ、いつもの駕篭屋さんたちが楽屋口で師匠をお待ちかねだよ」
と告げた。円朝は楽屋を出た。春の夜風が吹いた。
「師匠、お与志さんは、あいつらが弘庵先生の処まで送り届けたそうですぜ」
と守蔵が、空駕篭をかついで行った唐独楽屋の駕篭仲間の仕事を知らせた。
「それから、この鍵でござんすが、お与志さんから預かって来たそうですぜ。円朝師匠にお渡しするようにって」
伸兵衛が懐から、鍵を取り出すと円朝に手渡した。麻布暗闇坂の一歩桜の屋敷の鍵だ。
「おぼろ月が照らしているなぁ」
円朝は言いつつ伸兵衛から鍵を受け取り、駕篭のなかに身を入れた。
二人のかつぐ駕篭は、円朝を乗せて、本所から湯島に向かった。大川にかかる吾妻橋を越えていく。大川端に桜並木が花を咲かせている。守蔵の声がした。
「師匠、きれいな月が照らしてらぁ。大川端の桜並木が眺められますぜ。たれの小窓を開けて夜桜をご覧になっちゃあ、いかがです」
「うむ、大川端の夜桜並木か。がきの頃から春が来たってぇなると、昼となく、夜となく、ここの桜を眺めるもんだが、、さてこれで何度目のことになるかなぁ……」
守蔵に聞こえるように円朝は答えたが、駕篭のなかで小声になって、
「ふふ、それに一本の夜桜が、今宵はまだこの俺を待っている」
誰にも聞こえないようにつぶやいたのであった。駕篭は湯島の円朝宅に着いた。伸兵衛がたれをあげる。円朝はたんまりと駕籠賃を守蔵に渡す。
「師匠、こりゃいただき過ぎで……」
「いいってことよ。いつも、無理を頼んで乗せてもらっているんだ」
そんなあいさつも、毎度のことであった。
そしてその夜、円朝の姿は湯島の自宅の寝間にはなかった。
月が照らす。桜の樹を照らす。しだれ桜の満開の花を照らす。麻布暗闇坂、一本桜の卯之吉の屋敷の庭に円朝の姿はあった。庭の手頃な平たい岩に毛氈を敷き、腰を降ろし、足は庭に投げ出してじっと、妖艶なまでに艶めかしく、ときおり春の夜風に揺れるしだれ桜を眺めている。揺れるしだれ枝の花々は色香で男を誘うようなしぐさに見えた。
と、枯れ屋敷の朽ちた塀を、乗り越えて来る影がある。
ひとり、二人……。四人、六人と人影は次々と塀を越えて、庭に降りた。おそらくははしごを塀の向こうにかけて、屋敷のなかに侵入したものだろう。皆、忍び装束をまとっている。その数は十人を超えた。しゃがみ込んで、最後のひとりが塀を乗り越えて来るのを待っていた。そのひとりが、庭に降りた。
ざっとしゃがんだまま、隊列を揃えると、立ち上がって腰をかがめ、いっせいに庭の桜
の樹に向かって走り出した。
月夜は庭のまん中に座る円朝の姿も照らしている。
「だっ、誰でぃ」
その声に、一団がいっせいに庭のまん中の腰かけたままの円朝へと向いた。
円朝は、静かに言った。
「花見の邪魔だぃ」
とたんに十人は円朝をぐるりと取り囲むように駆けつけた。月が円朝の姿を照らす。
円朝は動かなかった。円朝は遠くのしだれ桜をのんびりと眺めていたのである。
「邪魔なのは手前ぇのほうだい」
「構うことぁねぇ、叩っ斬っちまえ」
十人がいっせいに刀や匕首を抜いた。
「花見の邪魔だと言っているだろう。手向けぇするやつぁ……」
すーっと円朝は朱鞘を抜いた。岩石の上にむっくりと背を伸ばして立ち上がった。
武蔵国兼光が月夜にぎらりと輝いた。
「こいつがお相手してえってよ」
と円朝は十人に静かに言った。