第三話 「一本桜」(85)

卯之吉とお与志が文旦を食べる間、円朝は庭に見えるしだれ桜の花を眺めていた。
程よく二人が文旦を食べ終える頃に円朝は言った。
「卯之吉さん。今日は駕篭を用意して参りました。あたくしに付き合っちゃぁくれませんかね」
円朝の駕篭が行く。後ろには卯之吉を乗せた駕籠がついて走る。
たどり着いた先は浅草田原町の弘庵医師の宅前であった。
「これはこれは師匠、ようお出でなさったな。うんっ……」
円朝を出迎えた弘庵であったが、その後ろに立つ卯之吉を見て即座に言った。
「胃の腑がよろしくない患者とは、あなた様でございますな」
卯之吉の立ち姿と顔色を見て、言い当てたのであった。
弘庵は、卯之吉を座敷に招き、脈を取り、舌を診た。
卯之吉に横たわるようにうながすと、腹部のあたりをもむようにして、
「ここは、痛みますかな」
と声をかけた。
「うっ、ううむぅ、先生。まさにそこなんでございますよ」
腹部を押さえられて卯之吉は顔をゆがめた。弘庵は円朝に告げた。
「よくぞ、連れて参られた。手遅れになるところじゃて。触ると堅いしこりがある。腹岩が始まっておるとみえる」
卯之吉が不安そうに弘庵に尋ねた。
「腹岩といいますと」
弘庵はきびしい表情で、卯之吉に告げた。
「身体のなかに、要らぬ新しい肉が生まれる病じゃ。腫瘍じゃな。放っておくと、その新しい肉が身体中に廻って、本来の身体を冒してしまう。きびしいことを申さば、終いには死ぬることになりますぞ」
座っていた卯之吉が身をのけぞらせて尋ねた。
「ど、どうしたら治るんでございますか」
「薬湯ではもはや効かぬ。蘭法医術を施す。手術じゃ。身体に刃物を入れることになる」
卯之吉はおびえたように顔を曇らせた。
「そっ、そんな怖ろしいことを」
弘庵は、にこりと笑って卯之吉をなだめた。
「ご案じ召されるな。麻酔をかけますでな。我知らず眠っておいでの間に、悪いところはこのわしが切り取ります。縫合もすぐに済む。目が醒めたときには、すべてが済んでおります。その病、このわしに任せてもらえますかな」
卯之吉は震えながら、弘庵の前に両手をついた。
「死ぬるところをお救いくださるなら、弘庵先生にすべてお任せいたします」
「うむ。早いほうがよかろう。それから腹に刃物を入れますでな。手術が済んでからも、しばらくは拙宅にて療治を続けていただくことになります。なに、傷が癒えるのも早い。ご案じ召されるな。任せていただこう」
円朝が卯之吉に声をかけた。
「弘庵先生なら、あたくしが太鼓判を押します。さて、長療治をここで続けるとなると、桜屋敷はどうなさいます」
「お与志を寄こしてくださらぬか。隠居屋敷はしばらくは留守にいたします。鍵を師匠に預かっていただきたいのだが」
「引き受けましょう」
円朝は麻布暗闇坂の一本桜の屋敷の鍵を預かることになった。鍵はお与志が持っている。
と、暮れ六ツの鐘が響いてきた。
「いけねぇ、本所の満川亭にあがらなきゃならねぇ。弘庵先生、卯之吉さんをよろしくお頼み申しますよ」
言って、弘庵宅を出た。守蔵と伸兵衛が待っていた。円朝は卯之吉の身の上に起きた病の仔細を話し、空駕篭を麻布に向かわせた。お与志を迎えに行き、弘庵宅へ連れて来るためである。伸兵衛は空駕篭を見送ると、駕篭のたれをあげて円朝を乗せた。守蔵は言った。
「何ぁに、暮れ六ツの鐘が何だってぇんだい。鳴り終わる頃にゃ、田原町から本所の満川亭まで駆け抜けて、ぴたりと間に合わせてみせまさぁ」
後棒の伸兵衛が、守蔵に言った。
「兄ぃ、無理だよ。後棒をかついでいるのは、このどじ足の伸兵衛なんだぜ」
「ちくしょうめぃっ、おう、伸兵衛、死んだ気になって手前ぇの足に仕事をさせろぃ」
円朝を乗せた駕籠は、暮れ六ツの鐘が鳴る江戸の町を本所に向かって走り去った。
本所松倉町の満川亭の高座で、円朝が蝋燭の灯心を閉じた扇子でトンと打つ。
寄席に明かりをもたらしていた蝋燭の炎が、ひとつ、またひとつと消えていく。
満川亭の高座と客席は、暗闇に包まれた。
「お疲れ様でございます」
楽屋に戻って来た円朝に前座の若い噺家が声をかけた。
「円朝師匠のおかげで、大入り満員だってぇんで、あたくしも祝儀袋をいただきました」
前座が円朝に笑いかける。