第三話 「一本桜」(84)

「これはっ」
「文蔵は、おそらく水道橋の水戸上屋敷内の中間部屋に隠れ潜んでいる。儀右衛門さん、何とか忍び込んで、この巾着袋を文蔵一味の元へ放り込んでみちゃくれめぇか」
「からくり細工なしの忍び込みか。難儀はするだろうが、やってみやす」
儀右衛門は円朝から結城紬の巾着袋を受けとった。
「それじゃぁ、あっしはこれでおいとまいたしやす」
儀右衛門は、円朝の寝間から音もなく襖を閉じ、足音もなく玄関から去って行った。
円朝の寝間に静寂が流れた。
「次郎吉や、どなたかこんな真夜中にお客様でもお出でかい」
奥の間から眠そうな声が聞こえた。おすみが円朝に尋ねる声だった。
「いや、おっ母さん」
円朝は隣室で寝ているおすみに、
「ただの鼠だよ」
そう答えた。
翌日の昼過ぎに、円朝は上野黒門亭の昼席を務めた。
楽屋口を出ると、駕篭が待っていた。守蔵と伸兵衛である。守蔵が言った。
「師匠、今日は花見に出向く人たちで往来は混んでいまさぁ。次は神田の立花亭でござんすよね。そして夜席は本所の満川亭でござんしょ。大川を通っていきます。立花亭の高座がはねたら、早めに出向いて、少し花見にお寄りしましょうか」
円朝は伸兵衛があげるたれのなかに入りながら、
「いや、花見の席はとってあるんだ」
と答えた。駕篭は神田の寄席、立花亭に向かって走って行った。
立花亭の高座を済ませる。昼八ツを過ぎていた。円朝は守蔵に告げた。
「夕七ツまでは刻があるな。もう一丁の空駕篭を仕度して麻布の暗闇坂に行きてぇんだが、唐独楽屋に頼めるかい」
「がってんだい」
円朝が言い終わるか、守蔵はもう駆け出していた。湯島の駕篭宿、唐独楽屋に向かって一目散に走って去って行く。伸兵衛が、その後ろ姿を見送りながら言った。
「兄ぃ一人だと、あんなに速ぇんだよなぁ」
「まったくだ。韋駄天の守蔵さんか。足と口は見事に速ぇ。だが気も早ぇのが玉にきずだがな」
ふふふと円朝は伸兵衛に笑いかけた。立花亭の隣には果物屋の万惣が建っている。
「伸兵衛さん、空駕篭を待つ間に文旦でも食べねぇか」
薩摩、肥後や土佐の国の名産である文旦は年の瀬に収穫される。穫り立ては酸味が強く、だから春まで寝かせて、甘味が増すのを待つ柑橘である。皮が黄色く厚い。皮が果実の半分を占める。それだけに剥くのは手間だが、万惣では文旦に切れ目を入れて、彩色の美しい九谷焼の皿に盛って客に出すのであった。文旦はだから春の味なのである。
万惣は弘化三(1846)年に江戸でも珍しい果実の専門店として店を開いた。万惣の果実蔵は主人の惣太郎をはじめとして、奉公人がていねいな掌りをしていて、どの果実も程好い味と香りになるように手間をかけている。新しい物、珍しい物が好きな江戸っ子にもてはやされた果実屋である。
「へぇ、甘酸っぺぇや。それに良い香りがすらぁ、美味いね、師匠」
伸兵衛は上機嫌であった。円朝と伸兵衛が万惣の軒先で、文旦を味わっているところへ空駕篭が向かって来た。先棒を担いで走って来るのは守蔵だった。
本来の先棒の駕籠かきの男は、守蔵に遅れまいと一心に駆けている。
「師匠、お待たせいたしやしたっ」
息もつかずに守蔵が言った。後から追いついた先棒かつぎの男と、後棒をかついでいた男がはぁはぁと息を切らせている。
守蔵は、九谷焼の皿を抱えて、文旦を食べている伸兵衛に向かって、
「何でぃ、手前ぇ。のんびりと美味そうなもんなんぞ食っていやがって。師匠、この野郎を甘やかすことぁねぇんでございますよ」
にらみつけたものである。
「まぁまぁ、守蔵さん。それにしても早かったな」
なだめて円朝は、店の奥にいる万惣の丁稚に、
「この人たち三人にも文旦を持って来ておくんねぇ」
と注文をした。のんびりとした春の昼さがりである。空駕篭一丁と、円朝を乗せた守蔵と伸兵衛の駕篭が麻布に向かう。空駕篭には文旦が二つ、乗せられていた。
暗闇坂の一本桜の屋敷に駕篭は着いた。
「ごめんくださいまし」
円朝が声をかけると、お与志が玄関に迎えた。円朝は文旦を二つ、お与志に手渡した。
「土産でございます。卯之吉さんはお加減の具合はいかがでございますか」
と尋ねた。
「はい、この間、円朝さんにお持ちいただいた煎じ薬が効いたようでございまして、具合がよろしいんでございますよ。何より飯が食べられるようになったと喜んでおりまして」
卯之吉老人は、それまではお粥しか食べられなかったとお与志は円朝に訴えた。
「ほぅ、そいつぁ良かった」
お与志に案内されて、円朝は奥座敷に卯之吉を訪ねた。