第三話 「一本桜」(82)

「ああ、その日にゃ文蔵一味は、品川宿から東海道へ盗人旅に出ていたはずだ」
と円朝は儀右衛門に言った。儀右衛門ははっと顔をあげた。
「すると、お千恵嬢も一緒に」
「ああ、東海道の盗人旅で、引き込み役に使われていたらしい」
「何てことだい。お千恵嬢まで地獄を背負っちまったってぇことか」
儀右衛門は絶句した。円朝は静かに尋ねた。
「それで伊平次さんの身体の具合は、どうなったんだい」
「へぃ幸いに医者の療治が効いたものか、薄紙をはがすように具合がよくなりやしてね」
半年が過ぎた頃には屋内で立ち座りができるようになり、一年が過ぎた頃には下戸塚村から高田馬場あたりまで散策に歩けるようになった。
「どす黒かった顔も白くなりやして、痩せていた身体にも肉がついて参りやした」
「暮らしの銭金や伊平次さんの療治の銭金などは、どうしたんだい」
へへへと儀右衛門は頭を掻いた。
「江戸で表立って商いをしたり、それこそ大工を務めたりすりゃ、いつ文蔵の一味に見つけられるとも限らねぇ。隠れ家暮らしを続けなきゃならねぇ。そいでね、かつて江戸市中に仕掛けた、お店や屋敷へのからくり細工。使わせてもらいやした」
「盗人で金を集めたのかい」
「妾を囲って豪奢な暮らしを続けていやがる大店の隠居屋敷や、仕入れ値より法外な高値をつけて商いをしていやがる陶磁器屋。そんなところに忍び込んでは十両、二十両とね。ところが、それが宗助の頭目の知るところとなりやして」
宗助はまだ完治とはいえない身体で、儀右衛門を叱った。
「盗み働きは、あの久保田屋で仕舞いにしようと言ったはずだ。いくらあこぎな暮らしをしているとはいえ、そうしたお店や屋敷に忍び込んで盗みを働いた金で、俺ぁ療治をしてもらいたくはねぇ。とは言っても、儀右衛門どんも俺を想ってしでかしたことだ。いや、俺がいるから儀右衛門は盗人をしなけりゃならねぇ……」
それが観音開きの宗助こと、伊平次の最後の言葉となった。下戸塚村から高田馬場へ、
「儀右衛門どん、ちょっと身体の鍛練に歩いてくるよ」
出かけた伊平次は、それっきり帰って来なかったのだという。八年前のことだという。
「あっしは、神谷町に伊平次さんが戻っちゃいめぇか。いや神田田所町か、あるいは木曽路の妻籠宿のお弘さんの墓参りに伊平次さんが訪ねてきやしなかったか。方々を探し歩きやしたが、足取りはまったくつかめなかったんでございますよ。その八年前に伊平次さんが残していった手紙がこれで」
儀右衛門が古ぼけた懐紙を取り出した。奉書紙だった。
「めいわくをかけた。ぬすっとはやめて、かたぎにもどってくれ。わたしはひとりでりょうじをつづける。お千恵をさがすつもりだ。あとのしまつはひとりでつける。伊平次」
円朝は、その筆跡が細いことに気がついた。
「この筆は……熊鼠の細い毛で筆先にしたに違ぇねぇ。儀右衛門さん、加賀蒔絵をご存じかぇ」
「ええ、漆器や文箱なんぞに細かくて綺麗な蒔絵を施すやつでござんしょう。それがどうかしやしたか」
「その加賀蒔絵の細けぇ線描に使うのが熊鼠の毛を束ねた筆なんだ。俺ぁ噺家になったばかりの頃に絵を学んだことがあってな。筆と紙と絵の具にゃ、ちっとばかり詳しいんだ」
円朝は十二歳のとき。嘉永四(1851)年、玄冶店の絵師、歌川国芳の内弟子となり、画工奉公や商画奉公した時期があるのは確かだ。絵師としても一流の腕を持っている。
「この筆は、伊平次さんが自分でこしらえたものに違ぇねぇ。すると行き先は加賀か」
加賀三代藩主、前田利常は京都から五十嵐道甫、江戸からは清水九兵衛を招いて、加賀藩の産業産物として加賀蒔絵の工芸品を作ることに力を入れた。それが加賀藩の資金源ともなったものである。謎がつながって来た。
「麻布の一本桜の卯之吉さんのお屋敷を去年の夏に訪ねたのは、おそらく伊平次さん、そう観音開きの宗助さんだったのは間違ぇねぇ。宗助と名乗り、筆の職人として旅を続けているとお話をなすったそうだ」
「ああ、頭目……。それで、宗助の頭目、いや伊平次さんは、その屋敷をなぜに訪れていなすったんでございやしょう」
「十年前、文蔵の野郎は宗助さんから隠居金のありかを聞き出そうとしていたと言ったね。その隠居金を隠したのは、まだ空き屋敷だった頃の一本桜の屋敷だったのかも知れねぇ」
円朝は腕を組んだ。そしてうなるように言った。
「俺は、文蔵一味からせっかく救い出したお千恵さんと娘のお千佳ちゃんを行方知れずにしちまった。文蔵一味に見つけ出されりゃ、またおとなしく引き込み役ってぇ次第じゃ済まねぇだろう。殺されるかも知れねぇ。早く始末をつけなけりゃならねぇ」
儀右衛門が円朝の言葉に応えた。
「えっ、お千恵嬢には娘がいなさるんですかぃ……まさか、文蔵の」
「いや、お千佳ちゃんの父親(てておや)は、堅気の大工だよ。久米吉っつぁんという神田竪大工町の長屋で、いまもお千恵さんを待っている男だ。ふふ、巡り合わせってぇのは不思議だなぁ。俺の家の半焼の後普請に、この壁や柱を立て直してくれているのが、その久米吉っつぁんだ」
「ちょっと、ごめんなすって」
儀右衛門はすっと立ち上がると、柱や壁を手で触れて歩いた。
「うーむ、いい仕事をしやがる。その久米吉ってぇ大工は、てぇした腕だ。同じ大工のあっしが言うんだから、世辞や間違いじゃござんせんよ」
ひとしきり、普請の様子を見た儀右衛門は、また円朝の前に座った。
「あっしも、せっかくかくまった宗助の頭目を、行方知れずにしちまいやした。宗助の頭目も文蔵に命を狙われている。不始末をしでかしたのは、あっしの方で」
円朝は、懐から取り出した。
「儀右衛門さん、こいつに見覚えはねぇかい」
結城紬の巾着袋。お千恵が千住の嘉納屋に残していった小さな袋である。
卯之吉の桜屋敷に、佐之助と名乗った偽岡っ引きの助造が、宗助からの預かりものだと言って置いていった巾着袋と同じものである。
「こりぁ」
儀右衛門がしげしげと巾着袋を見つめた。
「十年前、あっしが好造に当て身を食らわせて文蔵一味から離れるときに、じつは好造の懐を探りやした。財布と紙入れ、そして出てきたのが……」