第三話 「一本桜」(81)

好造はにたにたと笑うばかりだった。儀右衛門は決心した。好造について江戸に戻ったのである。下谷坂本村の、静蓮寺という寺の裏に建つ古ぼけた一軒家。
三年前に久保田屋に忍び込む手はずを整えた家である。
そこへ観音開きの宗助こと、伊平次は寝かされていた。秋の昼すぎだった。
「宗助の頭目、どうしてこんなお姿に」
旅姿を解かぬままに、儀右衛門は宗助の枕元に駆け寄った。
「あ、ああー、ぎ、儀右衛門かぃ」
苦しい息で宗助は答えた。
「さぁ、心を許した懐かしい儀右衛門のとっつぁんが、わざわざ帰って来たんだ。隠居金の隠し処をしゃべってもらおうか」
と好造が宗助の耳元にささやいた。
「あ、麻布に……」
と宗助が口にした。その途端に、
「いけねぇ頭目。それ以上しゃべったら、こいつらは頭目を殺すに違ぇねぇ」
と儀右衛門が制した。
すたんと襖が開いて、奥の間から低い背にがっしりとした体躯の男が入って来た。
「ちっ、寸でのところだったのによぅ。まったくよけいな入れ知恵しやがって」
ぎらりと刀を抜いた。文蔵だった。儀右衛門の顔に切っ先を突きつけた。
「おぅ、宗助。可愛い手下の儀右衛門さんを、この俺が叩っ斬ってやるぜ。それでも吐かねぇかっ」
儀右衛門は目をつぶった。覚悟を決めたつもりだった。
ところへ男が飛び込んできた。小吉だった。
「いけねぇ、頭目。町奉行の定廻り同心が見回りに来やしたぜ」
小吉はちらりと儀右衛門を見た。しかしあわてた様子で、
「何だと、ここは江戸の郊外だ。町奉行の支配は受けねぇ田舎村だ。どうしたわけだ」
文蔵は言ったが、小吉はあわてて言葉をつないだ。
「その田舎村のあばら屋に、こんなに人が集まっているところを問い詰められたら、怪しまれやすぜ。ここはひとまず、宗助の野郎を寝かしたまま、ずらかりやしょう」
座り込んだままの儀右衛門を、好造が無理やり立たせた。
そうして一味は散り散りに坂本村のあばら家を飛び出した。
「あっしは好造に当て身の拳を食らわせやして、一味からは離れやした。そして一味の後を遠くからつけたんでさぁ」
「たどり着いたのは千住の百姓家だったのかい」
「へい、お察しの通りで」
儀右衛門は円朝に両手をついて平伏した。
儀右衛門は文蔵の隠れ家の百姓家の壁に張りついて耳を立てた。
「懐かしいお千恵嬢の声がするじゃござんせんか。男たちの声にお千恵嬢の声が交じって聞こえて、あっしはたまげやした。下谷坂本村には宗助の頭目こと伊平次さんが寝かされている。千住の隠れ家には娘のお千恵嬢がどうやら無理やり連れて来られた様子だ。文蔵の野郎。何をしでかすつもりなのか。あっしは思案しやした。どうにかして、お千恵嬢を逃がしてやりてぇとね。だが手薄なのは坂本村の伊平次さんのあばら家だ。まずは坂本村からだと、あっしは千住を離れたんでさぁ」
「で、どうなすったんだい」
「坂本村のあばら家にも、文蔵の手下が二人ほど見張りについていやしたがね。にわか雇いの間抜けどもで、剣術もできゃしねぇ」
と儀右衛門は懐から玄翁を取り出した。
「お忘れじゃござんせんよね。あっしは大工だ。玄翁の扱いは玄人でござんすよ」
手下ども二人の後ろから忍び近づいた儀右衛門は、玄翁で二人を殴り倒した。
気絶した手下の二人をあばら家に運び込み、伊平次の枕元に参じた。
「宗助の頭目、伊平次の棟梁。ああ、どっちでも呼び名はいいや。いってぇ、どうしたってんでございますか」
「あぁ、済まねぇ、儀右衛門。かっ、肝の臓らしいや。歩くことはおろか、立つこともできやしねぇ。身体に力が入ぇらなくてなぁ……。おっ、お千恵。お千恵は無事なのかぃ」
弱々しく伊平次は答えた。儀右衛門は枕元で言った。
「お千恵嬢とお会いなすったんですね。お千恵嬢は千住の百姓家にいます。文蔵の野郎に連れ去られたようですが、あっしが救い出しますから、ご安心を。それより、ここちにいちゃ、いつまた文蔵の野郎になぶられるか分からねぇ。あっしがかくまいます。いま駕篭を呼んで参ります。しばらくのご辛抱を」
こうして下谷坂本村から、はるばる豊島郡、高田馬場近くの下戸塚村まで運んだ。
「ここなら、文蔵に見つけられることもねぇでしょう」
村の空き家を借りたのは儀右衛門だった。医者を呼び、伊平次の治療をさせた。
「二〇年ほど前にも肝の臓を患っておりやす。持病ってやつで。先生、このお方をよろしく療治してやっておくんなさい」
翌日には、千住の文蔵の隠れ家へ向かった。
お千恵を何とか救い出し、伊平次に会わせる所存だった。ところが、
「千住の百姓家は、もぬけのからで、人っ子一人いなかったんでございますよ」
儀右衛門は十年前のその日の悔しさを円朝に述べた。