第三話 「一本桜」(79)

「でも、その久保田屋さんの隠居所を普請するときにも、儀右衛門さんは忍び込みのためのからくりを施したわけだ」
「ええ、伊平次棟梁の、いや宗助頭目のお言いつけですからね」
儀右衛門は笑顔に崩していた顔をきりりと締めた。
「伊平次棟梁は、見抜いていなすったのかもしれねぇ。米問屋、久保田屋満作のご隠居様の目が黒いうちは、大丈夫だ。でも娘婿の番頭だった己之助さんが大旦那の座に就くそのときは……何かが起こるかも知れねぇって、棟梁はそれであっしに」
円朝の寝間に、儀右衛門の声が低く流れた。円朝が合点した、
「いつものからくり仕掛けを仕込めと、儀右衛門さんに指図なすったわけかい」
「へぃ、それからも観音開きの宗助頭目を筆頭にあっしらは、数年に一度でしたが、あちらこちらのお店に忍び込みやした。日本橋中橋広小路の蓬莱屋をご存じでしょう。ええ、御上からお払い下げの砂糖を卸し商う蓬莱屋でさぁ。卸し値をつり上げてあごぎな金儲けをしていやがったから」
「忍び込んだのかい」
「へぇ、やはり金蔵から二千両を仏間に運びやして、金子を山と積み上げて、仏壇の扉を開いて観音様をど真ん中に据えて、手紙を置いて参りやした」
伝馬町の口入れ屋の樋口屋は、人足を雇い入れ、荷揚げ場や護岸の石積みの場などに働き手を差し向けていた。支払う賃金はわずかばかりで、請け負う仕事の稼ぎのほとんどを独り占めしていた。その樋口屋にも観音開きの宗助は忍び込んだ。
金子を仏間に山と積み、仏壇の扉を開き、手紙を置いてくる。昼になれば、観音開きの宗助たちは大工の伊平次を筆頭に汗を流した。暮らしの銭は、大工の仕事でまかなった。
「いまから十六年前、久保田屋の満作ご隠居が亡くなりやした」
「ああ、お千恵さんが十四のときだってな」
「そして十三年前に、跡継ぎの婿養子の己之助の野郎が高望みを画策しやがった」
「ああ、そのことをお千恵さんから初めて聞いたときにゃ謎だったが」
謎は円朝のなかで解け始めていた。
「久保田屋が霊岸島の米問屋、大津屋を買い取り、佐竹藩の米だけじゃなくて、関八州の米はすべて引き受けて商うってぇ話になったそうだね」
「へぃ、米の値段は思いのままにつり上げられるってぇ了見だったのでございましょう」
「その久保田屋が新しいお店と外蔵を建てるってぇんで、日本橋小網町あたりの表店も裏長屋も立ち退けと触れたそうじゃねぇか」
「そうでございやした。伊平次さんは、腕組みをしてうなっておいでだった」
そして儀右衛門に確かめたという。
「十七年前、久保田屋の隠居所を邸内に普請するとき……からくりは仕込んだはずだな」
「へぃ、伊平次の棟梁、いや宗助頭目のお指図どおりに……」
「今度ばかりは、金子を仏間に積み上げて驚かすだけじゃ済むまい。乗っ取りと立ち退きの資金、その額は二万五千両。すっかり盗み出さなけりゃ。己之助さんは懲りたりゃしねぇだろうよ。大工仲間の俺たち四人だけでは、おたからを運び出せない。手数が要る」
「どのくらい入り用でございやしょう」
「ざっと十人。だからあと六人の人手は集めなけりゃならねぇ」
「分かりやした。この儀右衛門が何とか手配りいたしやしょう」
儀右衛門は捜した。お助け小屋を出されたばかりの者、荷揚げ場でその日暮らしの仕事をしている者、無宿者、ときに浪人者に、
「一日で十両の手間賃を支払う。仕事はその夜のそれっきり、その後はお互いに知らず会わずで散り散りになる。どうかね」
口が堅そうな者をあたっては、仕事を持ちかけた。久保田屋に忍び入ることも、宗助の名も明かさなかった。そうして六人ほどを、下谷坂本村に見つけておいた隠れ家に集めた。
「そのなかの一人が、まだ十七にもみたねぇ文蔵だったんでございますよ」
「久保田屋に忍び込んだのが十三年前ってことは、あの文蔵はいま三十歳ってことか。いってぇ、どういう素性の男なんだぃ」
「へぃ、水戸藩士の四男坊でその名を赤萩文四郎という、もとは侍でございますよ」
「ほぅ、水戸藩士か。すると江戸者なのかぃ」
水戸藩は徳川御三家の副将軍であり、江戸常勤の身分で参勤交代はなかった。江戸市中にある水戸屋敷に勤務する水戸藩士は、本国である水戸藩常陸国に赴くことなく江戸で生まれ、江戸で育ち、江戸者として生涯を過ごす者も少なくない。
「文四郎は継ぐ家督とてない身の上で、九段の俎橋の練兵館という剣術道場で客分の暮らしをやむなくも過ごしていた男でございます」
「練兵館か、齋藤さんところの神道無念流だな」
と円朝はあごに手を添えた。そのまま儀右衛門に尋ねた。
「それで久保田屋には忍び込んだのかい」
「へい、からくりの仕組みは、にわか手下たちには見られねぇようにしまして、裏木戸を開け、十人がそっと忍び込みやした。あとは坂本村の隠れ家で鍛錬した通り、金蔵の二万五千両余りを素早く運び出しやして久保田屋には百両の金も残さなかったでしょうよ」
「それで久保田屋己之助の宿望はついえたわけか。乗っ取りも立ち退きもご破算か」
ふふふと円朝は笑った。儀右衛門もつられるように笑った。二人で笑った。
「日本橋から楓川の堀へ舟荷として二万五千両を積み込み、堀端で配下となった八人に十両ずつを手渡して、あとは三々五々に小吉も好造も、もちろん文蔵ともそこで別れました。弾正橋から八丁堀へ抜けまして、お役人たちの役宅を岸に眺めつつ、観音開きの宗助とからくり細工の儀右衛門は、のんびりと二万五千両を舟で運んだんでございますよ」
「てぇした胆っ玉だ。盗人金を積んだ舟がまさか八丁堀を通ったとは……」
「ええ、お釈迦様でも観音様でも気がつくめぇってな気分でございました」
鉄砲州から石川島へ向かい、江戸湾へと漕ぎ出した。対岸に越中島。その向こうには深川町の岸が臨める。そのあたりまで舟が進んだときだった。宗助は言ったのである。
「なぁ儀右衛門。これで盗人仕事はお仕舞いにしようや」
「へぃ、頭目。この二万五千両を海に沈めて、明日からはまた大工仕事に戻りやしょう」
「いや、そうはいくめぇよ。俺ぁ地獄を背負っちまった」
「どういうことです」