第三話 「一本桜」(77)

江戸に戻った伊平次は忍び盗人に入ったのである。手に鑿、錐、玄翁を手にしていた。忍び込んだ先は、西念寺であった。儀右衛門を伴っていた。
「開徳坊主の寝室の隣り部屋、寺の宿坊とは名ばかりの贅をこらした居間を開徳は豪華に普請していやがりました。その居間の掛け軸の後ろに隠し扉があり、その扉の奥に千両ばかりが隠されておりやした」
儀右衛門の話に円朝は返事をした。
「寺に千両か。高利貸しだけで貯めた金子じゃねぇだろう。あこぎな坊主もいたもんだな。それでその千両を盗み出したってぇわけかい」
「いや、伊平次さんが盗み出したのは、きっかり四十両でございやした」
伊平次は、さっそく四十両を持参して馬籠宿の黒木屋に舞い戻った。
儀右衛門も手甲脚絆姿で旅に同行した。
遊女に売られている女房、お弘を身請けする金を持って行ったのである。
「ところが、世間てぇのは、この世ってぇのは無残なもんじゃござんせんか」
と儀右衛門が言う。
「客を取らされて、飯もろくに食わせてもらえず、ぼろぼろの身体で病に冒された女郎おもよことお弘さんを、伊平次さんが四十両も支払って引き取ったときは、もう虫の息。どうにか駕篭をつかまえて、妻籠宿まで運んで旅籠に寝かせて、地元の医者に走って、脈を取ってもらったときにゃぁ、医者は首を横に振るばかり。お弘さんは、そこでひと言も話せず、もうその目で伊平次さんを確かめることもできず、やつれて白目を剥いたまんまのひでぇ形相で、ひゅーとのどを鳴らしたが最期。息を引き取ったんでございやすよ」
「うーむ。それが三十年ほど前のことか。伊平次さんはどうなすったぇ」
「妻籠宿で、弔ぇの真似事みてぇな読経をあげてもらって、お弘さんの遺骸を墓に葬りやした。それがいま時分の春のことで、墓のそばには桜が咲いておりやしたっけ。江戸の板橋宿までの帰り道中。伊平次さんはひと言もしゃべらなかった。あっしも言葉はかけなかった。そうして江戸へ舞い戻ってきたんでございます」
江戸の神谷町に戻った伊平次は、ひっそりと大工を続けた。
伊平次が住まいを西久保神谷町から日本橋田所町に移したのは間もなくだった。
儀右衛門は神谷町に残って大工を続けた。
ときおりは田所町を訪ねては、伊平次の話し相手になっていたという。
「口が重かった伊平次さんも次第に世間話くらいにゃ返事をしてくださるようになんなすった。西念寺に盗みに入ったことにも、馬籠宿でお弘さんを身請けしたことにも、あっしは触れなかった。ときには居酒屋に連れ出して、盃を酌み交わすこともあったんでございやすよ。ところがその帰り道に、何てことぁねぇ親子連れなんぞに出っくわすとね、伊平次さんは、途端に押し黙っちまう。心の傷ってぇやつは癒えねぇもんだ。それでも神田あたりで大工の伊平次といやぁ、評判に普請を頼む家やお店が増えていきやして、その頃でしたっけ。小網町の久保田屋さんの普請を請け負ったのは」
米問屋、久保田屋といえば、
「そりゃ、伊平次さんが捨て子だったお千恵さんを預かったってぇ、あの久保田屋かぇ」
円朝は儀右衛門に声をひそめて確かめた。儀右衛門はにっこりと笑った。
「隠居所の普請でしたがね。じつは打ち明けなきゃならねぇのは、こっから先なんで」
伊平次は久保田屋の裏庭に面した隠居所の普請を請け負ったが、儀右衛門に手伝って欲しいと頼み込んだという。
「いつものように……頼む」
それだけで儀右衛門はすべてを承知した。
「あっしが、からくり細工の儀右衛門と呼ばれるわけでござんすが、円朝師匠……」
新普請のお店、屋敷、家屋にからくりを仕掛けるからだと儀右衛門は打ち明けた。
「覚えておいでですかい、円朝師匠。この近く、湯島の井汲庵の内土蔵の壁に塗り込めた木戸口。あれは、このあたくしが、からくりに仕掛けた細工なんでございますよ」
そうだ。焼け落ちた井汲庵の内蔵に閉じ込められた主、治兵衛と番頭を救い出したときに、儀右衛門は、どこからともなく現れて、老いぼれ鼠と名乗って、その土蔵の壁に隠した木戸を開けてくれたのだった。
「いざというときゃ、盗みの入口に使う普請のからくり。それがあの火事んときゃ、人を救い出すのに役立ちやした」
暗闇の寝間で、円朝が聞いた。
「すると、伊平次さんは、はじめは井汲庵に盗みに入るつもりだったのかぃ」
「もしも、もしもですよ。井汲庵が悪でぇ商売に手を染めたら、あっしは懲らしめの盗み働きをすねつもりでしたがね。ところが井汲庵の治兵衛の旦那は、あのお人柄だぁ。盗みに入るなんて及ばないに済みました。井汲庵の普請は、二十年ほど前に、あっし一人でからくり細工の忍び口を仕掛けたんでさぁ。そのことは伊平次さん。つまり観音開きの宗助の頭目は知らねぇことでござんすよ」
「どういうことだぃ」
「伊平次、いや観音開きの宗助は、初めて盗みに入った西念寺のあとにゃ、もう二度と盗人は働ねぇと決めていなすった。ところがあっしがいけねぇんでございますよ」
と儀右衛門は、ふふと小さく笑った。
「西念寺に忍び込むときにゃ苦労しやしてね。鑿と錐と玄翁で音を立てねぇように裏木戸を開けるのにずいぶん手間を取った。伊平次さんが田所町に移り住んで、あっしはまだ神谷町に住まいを続けているときだ。あっしにいたずら心が芽生えていたんでしょうかねぇ。新しく普請を請け負ったお店や屋敷には、たやすく忍び込める細工を仕掛けるようになりやしてね。もちろん、見破られることぁねぇんで。からくりを施したあっしにだけ入口になってくれる仕掛けを方々のお店や屋敷に仕込みやした」
「それを打ち明けた相手が、伊平次さんだったってわけか」
「さすがは師匠。お察しが早い」
儀右衛門の打ち明けた、からくり細工に伊平次は殴りかからんばかりに怒ったという。
「やい、儀右衛門。手前ぇは盗人に堕ちるつもりか。何の了見で、そんな仕掛けを普請しやがったんだ」
と伊平次は儀右衛門を責めたのであった。
ところが皮肉なことには、しばらくして西念寺が普請を儀右衛門に頼んだのである。
西念寺では、儀右衛門が伊平次と共に寺へ忍び込み四十両を盗んだとは、よもやも思っていなかった。儀右衛門は住職の寝間を新普請に通いつつ、裏木戸がたやすく開けるように細工を施したのであった。完成の後に、神田田所町にいる伊平次に打ち明けた。
西念寺の開徳は相変わらず、高利貸しを続けていた。
寺内には賭場の間までしつらえて、毎夜のごとく賭け事に付近の町人、職人を巻き込んでは金を巻きあげているとの噂もあった。
伊平次はしばらく黙っていたが、うめくように儀右衛門に言った。
「やるか」
儀右衛門は黙って首を縦に振った。
「これは恨みを晴らすためじゃねぇ。このままじゃ世間様が開徳野郎の餌食になっちまう。高利貸しに貸す金の元手までごっそりと無くなりゃ、もう西念寺は、いやあの開徳は立ちゆかなくなるに違ぇねぇ。そのためにもう一度だけ、俺ぁ忍び込む」