第三話 「一本桜」(76)

お弘は医者の療治と薬のおかげで、立ち上がれるようになった。顔色もさえてきた。
「ところが、その頃にゃぁ、今度は伊平次さんが倒れてしまったんでさぁ」
借りた金を返すために、伊平次はどんな仕事でも引き受けた。朝駆け、夜なべ、大普請の手伝いから、雪隠作りの小普請まで、ありとあらゆる仕事を引き受けた。安い工賃でもいとわなかった。赤坂の箪笥問屋、井家屋の奥座敷を普請しているときに倒れた。
「無理がたたったんでございましょうねぇ。顔色が黒くなって、どんどん痩せてしまってねぇ。お弘さんが医者を連れて来たっけ。診立ては肝の臓の病だということでした」
今度はお弘が働きに出た。麻布永坂の蕎麦屋の女中となって昼は働き、夜は伊平次の看病にあたっていた。儀右衛門もときに見舞ったが、伊平次の病は重そうだった。
伊平次が病の床に就いて三ヶ月余りの頃に、西念寺からの遣いだと言って、人相のよくない輩が伊平次の長屋を訪ねてきた。口をきけない伊平次の代わりにお弘が答えた。
「五両だなんて、そんな貯え金はいま、うちにはございません」
人相のよくない輩は五人ほどで伊平次の病床とお弘を取り囲んだ。
「五両だとぉ、借りた金には利子ってぇもんがつくのを知らねぇのか。手前ぇたちが返さなきゃぁならねぇ金は、十二両となっているんでぇい。さっさと返さねぇかっ」
五人の輩は、寝たきりの伊平次を殴りつけ、足で蹴り、悪態をついたあげくに、お弘を、「借金の支払いのかたに、手前ぇの女房をもらっていくぜ」
と後ろ手に縛りつけ、猿ぐつわまでかませて連れて行ってしまった。
見舞いに来た儀右衛門が伊平次の枕元に座ったときには、すべてが終わっていた。
「おおかた品川あたりの女郎屋に売られたに違ぇねぇ」
と儀右衛門は思ったが、お弘を取り返す手立てとてない。
「それより伊平次さん。いまは身体を養生するこった」
快復までには半年がかかった。
金を借りた麻布絶江坂の西念寺に出向いた。
住職の開徳は、黙って伊平次の訴えを聞いていたが、
「借りた金は返してもらわなければならん。五両がどうしたって。ほぅ十二両に増えたとな。うむ仏の慈悲で貸した金じゃ。ありがたいと思うならお布施に利子くらいはつけていただかんとな。受け取りにお前様の家に伺った輩だと。ふむ、返済は我が西念寺の檀家の
藤兵衛一家に任せてあってな。拙僧はあずかり知らぬことじゃて」
ふふんと笑って住職は門前に伊平次を追い出した。西念寺には藤兵衛一家の輩が詰めていたのである。つまり輩たちに叩き出されたというわけだ。
どうにか大工仕事をこなせるようになるには、さらに三ヶ月を要した。伊平次は働いた。
働きに働いて、品川宿でお弘を捜し出し、身請けをして取り返す覚悟だった。
どうにか十二両を死ぬ思いで貯めて、品川宿へ出向いた。ところが品川のどこの飯盛り宿でもお弘の姿は見当たらなかった。
聞き込みに泊まった飯盛り宿の女郎から聞いた話に伊平次は驚いた。
「おもよさんの真(まこと)の名は、お弘さんて言うんだったっけね。おもよさんなら、もう年増で、品川じゃぁ客が取れないってぇことで、馬籠の宿場に売られていったよ」
中山道、木曽路の馬籠宿。そこに売られた女房のお弘が居る。
伊平次は旅支度を調えて、馬籠宿へ向かった。
「病み上がりの身体で、独り身の長旅は無理だ」
と儀右衛門は共連れに、付き添いを申し出て二人旅となった。
馬籠宿の飯盛り宿、黒木屋に、お弘はいた。黒木屋の格子越しにお弘は座って街道を往来する男を眺めていた。やせ細り、白塗りの厚化粧に、か細くなった腕。薄くなった髪。いったい、どれほどの数の男がお弘の身体の上を通り過ぎていったことだろう。
食事もろくに食べさせてもらえない様子が見えた。
「お弘や」
「お前さん」
一年ぶりの再開だった。その光景は儀右衛門が覚えている。
「身請けをしたいと伊平次さんが十二両を両手に黒木屋に掛け合いましたが……」
と儀右衛門は遠い日を思い出すように円朝に言った。
「黒木屋はお弘さんを三十両で品川から買ったと、馬籠の宿に居る間のお弘さんの衣装代、化粧代、食事代としめて四十両は支払ってくれなきゃ、身請けはさせられねぇと」
「言われたのかい」
こくりと儀右衛門は円朝にうなずいた。
「とぼとぼと木曽路を江戸に帰り道、伊平次さんは思い詰めてつぶやいたんでさぁ」
三十数年前、その頃二十一歳の伊平次はつぶやいたのである。
「こんな世間様の仕組みがあってたまるものか。病の身に借りた五両が三ヶ月で十二両。それが女房をかたにとられて、迎えに行きゃぁ、木曽の馬籠まで売られて、四十両だ」
下諏訪宿まで戻って宿をとったその晩に、伊平次は眠らずにうなだれていたという。
「儀右衛門よぅ。俺ぁ覚悟を決めたぜ」
「何をだね、伊平次さん」
大工としても先達で、二歳は年かさの伊平次に、儀右衛門は尋ねた。
「それは江戸へ帰ってからの仕掛けだ」
儀右衛門は、思い詰めたような伊平次の目つきにぞっとした。