第三話 「一本桜」(74)

客席からはぞぞっとおびえる客たちの気配が高座に伝わってきた。
円朝は高座の座布団の上にすくりと腰を伸ばすと、楽屋へと引き上げた。
満川亭の主人、宗兵衛は腕組みをしながら、
「うーむ、さくらのなかへ入りねぇかぁ。あの上目遣いの不気味な笑い顔。いやぞっとするお噺だった。ところで円朝師匠。いまの噺は何という演目かね」
「そうさねぇ“一本桜”とでもつけやしょうかねぇ」
答えながら、帰り支度に羽織を着ているところだった。
楽屋で働いている若い前座が、円朝に告げた。
「いつもの駕篭屋さんたちが円朝師匠をお待ちでございます」
守蔵と伸兵衛が、満川亭の楽屋口に駕篭をつけていた。
円朝が駕篭に向かう。
思案顔の円朝に守蔵が気がついた。
「おぅ、伸兵衛。今夜は円朝師匠にお声をおかけしちゃなんねぇぞ」
「どうしてだい、兄ぃ。いつもは兄ぃが威勢よく円朝師匠に話しかけるじゃねぇか」
「黙って担げ、伸兵衛。円朝師匠は新しい噺でもお考え中なんだ」
ひょいと持ち上がった駕篭のなかから円朝は言った。
「済まねぇな、守蔵さん。思案をしているのは噺じゃねぇんだ」
「へい。何か別のお考えでもおありなさるんですかぃ」
「ああ、今夜の満川亭で俺が演った噺を文蔵の一味が聴いていたとすればだが……」
「文蔵、あの五寸釘の文蔵ですかぃ」
「ああ、帰り駕篭の俺を文蔵一味が襲うかもしれねぇ」
後棒を担いでいた伸兵衛が声をあげた。
「ひっ、ひぇーっ。襲って来るって、おいらたちの駕篭をですかい」
「文蔵の手下とおぼしき野郎が、麻布暗闇坂の桜屋敷を探っていやがった。向こうは隠れ宿に身を潜めているが、俺は寄席へ出ている身の上だ。そこで今夜は、わざと桜屋敷を根多にした噺を演ってみせた。俺が卯之吉さんの一本桜の屋敷のことを知っていると分かるようにな。向こうがどう出てくるか。今夜の高座に賭けてみたんだ」
守蔵が声を張り上げた。
「おぅ、伸兵衛っ。そうとなりゃ俺たちは文蔵一味の引き付け駕篭だぃ。鬼が出ても蛇が出ても、後棒を離すんじゃねぇぞ。こちとら江戸っ子よぅ。円朝師匠のおために死ぬ気で湯島まで駆け抜けるぜぃ。行くぜ、伸兵衛っ」
「わ、分かったよ、兄ぃ。でも文蔵一味が出たら、いつものように円朝師匠に、兄ぃの梶棒をすぐに渡しておくんなよ」
おびえながらも、駕篭を担ぐ伸兵衛だった。
「えっ、ほう、えっ、ほう、えっ、ほう……」
駕篭は真夜中の大川に架かる吾妻橋を渡って行った。
思い当ては外れた。
本所からの道中に、円朝が乗った駕篭を襲う者はいなかったのである。
「ふぅ、兄ぃ。湯島に着いたよ。怖ぇ思いはしなくて済んだね」
「しっ、黙ってろぃ伸兵衛。まだどっかから文蔵一味が襲ってくるとも限らねぇやぃ」
守蔵は緊張したまま、駕篭のたれを開けた。
円朝はふだんの通りにすっと優雅に駕篭からおりた。殺気も緊張感も感じさせない。
「ありがとうよ。さぁ駕籠賃に加えて、これは酒手だ。とっておいておくんねぇ」
たっぷりと支払う。
「いえ、駕籠賃だけで結構でさぁ。いつもこんなにお酒手をはずんでいただいちゃぁ」
「いいってことよ。守蔵さんと伸兵衛さんには世話になっているんだ。今宵は俺で仕舞い駕篭だろう。早く唐独楽屋に駕篭を戻して、どこかで一杯やっておくんな」
円朝は、火事からの修繕を続けている半普請の自宅にと入って行った。
自宅では母親のおすみが遅い夕餉の支度をして円朝を待っていた。
海老豆腐に、せりのおひたし、白販の上に刻んだ蓮根と浅草海苔を散らしてある。さらにそこへ、どじょうの味噌汁が膳部に乗せられた。
「さぁ、召し上がれ、円朝師匠さん。お前ぃ今夜は弘庵先生のところからまっつぐに本所の満川亭だろう。夕方から何も食べちゃいないんだろう。高座が忙しいのもありがたいけれど、食べるものも食べる暇がないってんじゃ、身体に障るよ、次郎吉」
母親らしく円朝の本名をまぜこぜに小言を言いながら、海老豆腐の上に刻み葱を散らす。 芝海老と豆腐を砂糖醤油で炒めたものが海老豆腐である。熱々のところに刻み葱が乗る。 蓮根は甘酢に浸してあり、しゃきしゃきの歯ごたえだ。浅草海苔の香りが食欲をそそる。 どじょうの味噌汁には酒粕が混ぜてあり、とろとろの吸い心地なのだった。
円朝が夕餉を済ませると、おすみは奥の間に引っ込んだ。
布団を敷いて眠りに就くのだろう。
円朝も寝間に布団を敷いた。ごろりと横になる。
桜屋敷の卯之吉老人の顔が浮かんだ。
桜の樹の根元に開いていた穴を思い出した。
「蝉の抜け跡じゃねぇ。棒きれで突いて開いた穴だろう」