第三話 「一本桜」(73)

「まぁ、履きやすいこと。ありがとうございました。あたくしはこの暗闇坂の桜屋敷に住んでおります。すぐ近くでございます。お礼にお茶など差し上げたく存じますが、あなた、着いてきてくださいますか」
「えっ、お宅に伺えるんでございますか。さして急ぎの用事もねぇし、へへ、それじゃぁお茶を一服だけいただいたら、おいとまいたしますから。どうも、こちらこそご馳走にあずかるとは、ありがとうございますです、へぃ」
女について坂を登っていく。あたりは麻布暗闇坂、ますますうっそうと暗い森のなか。
小さなくぐり戸を入ると、ぱっと拓けた見事な庭にしだれ桜が満開の花の盛り。
「庭先で粗茶でございますが、茶請けに桜餅をお持ちいたしました」
女が運んでくれたのは、萩焼の茶碗に抹茶を点てた器だった。
「うへ、いやぁ、あっしはふだんは安物のほうじ茶しか飲まねぇもんですからね。お抹茶なんぞは、どう飲んでいいやら分からねぇ。それにこの桜餅、良い香りがしやすね」
世辞を言って、抹茶を不作法にもかぶりと飲む。桜餅を大口を開けて放り込む。
と、途端にとろとろっと眠気が差して、ふと気がつくと女の膝枕の上。
とっぷりと陽が暮れて夜になっている。
「ねぇ、あなた。今夜は泊まっておいでなさいましな」
その夜は女の敷いた布団のなかで、その女としっぽりと一夜を過ごした。
朝になる。男は桜の樹の根本に目が醒めた。
「あれぇ、女はどこへ行ったんだ。それに屋敷がねぇや。このしだれ桜の向こうにゃ池があって、石橋が架かっていて、山毛欅の樹や楢の樹が遠くにあって。お屋敷は枯れたみてぇにみすぼらしい塀だったがよ。奥座敷の八畳間にゃ、朝日に鶴の掛け軸があって……」
円朝はわざと卯之吉老人の桜屋敷をそのままに語ってみせた。
「翌日の昼のこと、昨夜のことは夢だったのかと麻布に足が向かいます。うっそうと暗い森のなかの坂道を登って参りますと」
女が立っている。手招きをして桜屋敷に誘う。萩焼の茶碗に抹茶が点てられる。桜餅が添えられる。茶をがぶりと飲み、桜餅を口に運ぶ。またとろとろっと眠気が差して、気がつけば女の膝枕の上。陽は暮れている。その夜も桜屋敷に泊まって女と一夜を共にする。
「そうして三日ばかりが過ぎました。男が自分の住む西久保神谷町へ朝帰りに歩いておりますと、露店に売卜をする八卦見の易者が呼び止めます」
円朝はあご髭をたくわえた易者となって、髭を左手にいじりながら、扇子を、天眼鏡に見立てて男の顔を覗き込んでみせた。
「これこれ、そこのお方。顔に死相が表れておる。なんぞ思い当たることはござらぬか」
「えっ、死相って、あっしが死ぬってんですかい。そういや不思議なことに麻布に……」
暗闇坂の桜屋敷の女のことを易者に打ち明けると、
「うーむ、その女、この世の者ではあるまい」
円朝は扇子を半開きにして、筮竹をざっざっと分ける仕草を見せて、
「うむ、女は桜の精じゃな。おぬしはしとねを共にしていると言ったが、じつは桜の樹の幹のなかに招き入れられておる。桜花を満開に咲かせるために、女の精ばかりでは足りぬとみえて、男の精気。さようおぬしの精気を桜の花に移しておるのじゃ」
「す、すると、あっしはどうなるんで」
「ふむ、桜の花が散る頃には、その桜の樹のなかに閉じ込められて、二度とこの世には出て来られんじゃろう。桜のなかに閉じ込められる。そしておぬしはそこで死ぬ」
「さっ、桜のなかに閉じ込められるだってぇ。俺ぁそんな死に方はしたかぁねぇ」
「それであれば、もう二度と暗闇坂に足を向けてはならん。女の招きに応じぬことじゃ」
神谷町の長屋に戻ったものの、女の笑顔がまぶたに浮かんで、ついふらふらっと暗闇坂に出かけようかという了見になる。
「いけねぇ、いけねぇ。命を落としてまであの桜の精だという女と枕をかわすなんて、とんでもねぇ」
長屋でがたがたと震えていたが、そのうちにうとうとっと寝入った。夢に女が現れて、
「今日もお待ち申しておりますのに、どうしてお出でにならないのですか」
悲しそうな顔をする女の肩に手を添えると、女はふっと顔をあげて、
「その血が欲しい。お前の血が欲しい」
と形相も怖ろしく牙をむく。
「ひっ、ひぇーっ」
と驚いて、布団の上に飛び起きた。その声を聞いた隣に住む八五郎がやって来て、
「おぅ、どうしたんでぇ。世にも怖ろしい叫び声をあげやがって」
「うん、これこれこういうわけで、俺ぁ桜の樹んなかへ閉じ込められて精気を奪われて死ぬって言われたんだよ」
「するってぇと何かい。桜の花が散る頃まで、お前ぇが麻布暗闇坂へ行けねぇようにすりゃあ、命は助かるってぇわけかい」
「ああ、そうだよ八公。でもよ、こうして長屋に居るってぇとよ。つい女の顔を思い出して、俺ぁふらふらっと暗闇坂へ行きたくなっちまうのよ」
「そんなら、まかしとけ」
言って八五郎は男の手を引いて、どこかへ連れて行く。
そこは八五郎が出入りする馴染みの商家。番頭と八五郎が相談をしている。
「話は決まった。さぁ、こっちへ来ねぇ」
商家の廊下をずんずんと男の手を引いて八五郎は進んでいく。たどり着いたのは土蔵の前。ぎぃと重い土蔵の扉を開ける。
「お前ぇが、うっかり麻布暗闇坂に出かけねぇようにしてやらぁ。桜の樹に閉じ込められる心配もこれでなくなるぜ」
「なぁ八公。いってぇ、俺をどうするんでぃ」
そこで八五郎が、上目遣いに、にやりと笑って、土蔵の扉を手にかけながら、
「さ、蔵へ入りねぇ」
円朝がさっとおじぎをする。