第三話 「一本桜」(72)

円朝が目を細めた。
「どうかなさいましたかな」
卯之吉老人が怪訝そうに尋ねた。が、円朝は、
「いや別に」
と卯之吉にもお与志にも笑顔を返した。結城紬の巾着袋。それはあの湯島の火事の夜に千住の平宿、嘉納屋でお千恵が残していった巾着袋とまったく柄が同じだった。
なかに紙片が入っている。
「読んでも、よろしゅうございますか」
円朝は卯之吉に断りを入れて、巾着袋のなかの紙片を取り出した。
「麻布 暗闇坂 桜屋敷 主の名は井野屋卯之吉 宗助のたから」
と筆書きしてある。桜屋敷の近隣の地図も墨書きされていた。
卯之吉が言った。
「ああ、宗助さんが書いたんでございましょう。佐之助さんが初めて私のところを訪ねるのに迷わないように、地図まで描いて佐之助さんに渡したのでございましょう。それにしても、私のことをご自分の宝だなんて、あぁ、宗助さんにお目にかかるのが待ち遠しい」
ほくほくと笑顔になった卯之吉であった。
円朝は紙片をていねいに結城紬の巾着袋に戻すと、お与志の手に返した。
円朝はまた奥座敷の縁側に腰かけた。
「本当に、見事なしだれ桜の満開の花ですなぁ」
春風を頬に受けながら、円朝は卯之吉とお与志に楽しげに笑ってみせた。
その日の夕七ツ半、円朝は田原町にいた。弘庵を訪ねたのである。
弘庵は円朝から受けとった桜餅の破片を、飼育している鼠に食べさせた。
しばらく待つ間に鼠は、ぐったりと動かなくなった。
「うーむ、やはり眠り薬が仕込んである。おそらくは鹿の子草、それに青桐の葉や、わずかだが丁子と沈香の匂いもする。それらを混ぜ込めると強い眠り薬になる」
「すると医術の心得がある者の仕込んだ仕業ってぇことですかぃ」
「うむ、かつては忍びの者もこの秘薬に長けていたと聞く。薬に詳しい者の仕業には違いなかろう」
「やはり卯之吉さんは眠らされた。お与志さんも眠らせる手はずだったが、井野屋に使いに出たので、桜屋敷は留守になった。それでこの眠り薬を仕込んだ桜餅は要らなくなった。さて、佐之助と名乗ったやつが助造だとしたら、なぜ桜屋敷を調べたかだ」
円朝は腕組みに思案を始めた。
「謎はまだある。宗助という人物だ。文蔵の一味の偽岡っ引きの助造を、どうやら佐之助と名を変えさせて、卯之吉老人の桜屋敷に寄こしたことだ。ということは、宗助とやらも、文蔵の一味の盗人なのか」
弘庵には語らずに、胸の内で思案を続けた円朝だった。
円朝は、思案の末ににやりと笑った。
「文蔵は俺が寄席の高座にあがることを知っている。ならばいっそのこと、こちらから呼び水を語ってみるか」
麻布暗闇坂の一本桜の卯之吉の屋敷。そこを舞台に新しい落語を語る。
もし文蔵一味の誰かが、円朝を探りに寄席に来て、その噺を聞けば、
「俺が卯之吉老人の桜屋敷に行っていることが知れる。やつら、何か動くかもしれねぇ」
それが円朝の仕掛けだ。刻よろしく暮れ六ツの鐘が響いてきた。
「円朝師匠、こちらにお出でと伺いやして、お迎えにあがりやした」
弘庵宅の玄関に声がした。守蔵だった。
「今宵は本所松倉町の満川亭でござんしょう。伸兵衛と二人でお送りいたしまさぁ」
弘庵に挨拶をして、円朝は守蔵と伸兵衛の駕篭に乗った。
本所の寄席、満川亭には暮れ六ツ半より前にたどり着いた。
円朝が高座にあがる頃には満川亭は、押し寄せた客でぎっしりと埋まっていた。
「今宵はまた、春のことながら、怪談噺にお付き合いを願います」
語り始めた円朝は、悟られぬように客席を見まわしてみた。
文蔵一味に加わっていた者の顔を探したのである。
「麻布の暗闇坂と申し上げれば、ご案内の方も多ございましょう。その暗闇坂にしだれ桜の枯れ屋敷がございます。うっそうと昼なお暗い坂道に、一本の桜。暮れ六ツともなればあたりは真っ暗。人の顔とて見分けはつきません。闇に浮かぶ満開の桜が輝くよう。その花の美しさに見とれておりますと、どこかから小さな声が聞こえて参ります」
円朝はしなを作り、女の声に声色を変えた。
「もし、そこのお方。履き物の鼻緒が切れて難儀をしております。布きれの端でもございましたら、鼻緒をすげ替えたいと存じまして、お声をおかけいたしました」
驚いて、振り向く男が見たものは……。
こんな美人がいるのかと思うほどの絶世の美女。円朝は町人男になりきって、
「手ぬぐいがありまさぁ。引き裂いて鼻緒のすげ替えに使いやしょう。その間、足が汚れるといけねぇ。さぁ、あっしのひざの上にその足を乗せて待っていておくんなせぇやし」
懐から取り出した手ぬぐいを裂いた。実際には裂いていない。だが円朝が演じると、その手ぬぐいは本当に引き裂かれたように見えた。くるくるっと裂いた手ぬぐいを紐になうと、女の履き物の切れた鼻緒を器用にすげ替えていく。円朝の手元にはまるで履き物があるかのように見える。
「へへ、さぁ、指がきつくならねぇように柔らかくすげましたがね、履いてみておくんなさいましな。へへ、どうです。足に鼻緒が当たりゃぁしませんか」