第三話 「一本桜」(71)

言って円朝は座敷の畳の縁に目を留めた。ほんのわずかだが、縁が穴型に傷ついている。
釘抜きのようなもので、畳をめくりあげた跡だろうと察した。
「それでお与志さんが帰って来たときには、その佐之助ってお方はどこにいなさったんですかね」
お与志は、首をかしげて円朝に答えた。
「それがねぇ、しだれ桜の根元にしゃがんでおいでで、あたくしが声を掛けましたら」
「驚いて、この奥座敷に戻って来た。そうじゃございませんか」
円朝は、縁側から庭に降りた。すたすたと歩いて、しだれ桜の根元まで進んだ。
遠く庭を眺める縁側で、やたらと首をかしげているお与志に大声で尋ねた。
「この根元に、その佐之助ってぇお方はいなすったんですね」
円朝は桜の樹の根元を探った。
土に穴が空いている。
「佐之助とやら……探ったな」
円朝はひとりつぶやいた。庭を横切り、他の樹木の根元を調べた。少ないが土の上に穴がある。円朝の様子に、いぶかりながら、お与志が庭に降りてきた。円朝の隣に立った。
「この樹の根元の土の上の穴は」
円朝が言うと、お与志は、
「夏になると蝉が這い出して、この庭じゅうで鳴き声をあげます。おおかた蝉の抜け出した穴じゃございませんかねぇ」
そう語るお与志の顔を見て、円朝は言った。
「蝉の抜け穴が風雨にもさらされるのに、一年以上も穴ぼこのままで残りますかね」
問い掛けに、お与志はやはり首をかしげるばかりだった。
「その佐之助ってお方は太ってましたか、痩せてましたかぃ」
円朝の問い掛けに、お与志は困ったふうに、
「太っても痩せてもいませんでした」
と答えて、しばらく、思い出したように、
「あ、そうそう。鼻の右側に黒子がございましたっけ」
と円朝に告げた。
「その佐之助さん、こんな歩き方じゃございませんでしたかね」
円朝は、背を丸め、腰を落としてちょろちょろと歩く所作をお与志に見せた。
「まぁ、佐之助さんにそっくり。お知り合いなんですか」
お与志は驚いたが、円朝はまた元の円朝に戻って、
「いや知り合いってわけじゃござんせんよ」
お与志には頬笑んでみせた。
「間違いねぇ、文蔵手下の、偽岡っ引きの助造が佐之助と名を騙って、この桜屋敷を訪ねたに違ぇねぇ」
と円朝は心に思ったが、口には出さなかった。円朝はお与志と並んで庭を横切り、池に架かる石橋を渡り、庭に面した奥座敷の縁側に戻って来た。
「お与志さんが坂下の井野屋さんまで取りに行った上等のお茶の葉が届く前に、卯之吉の旦那は、その佐之助ってお方が届けてくれたお茶菓子を食べやしませんでしたか」
卯之吉も、わけが分からないというふうに首をかしげて答えた。
「ええ、いただきましたが、それが何か」
「茶菓子は卯之吉の旦那の分と、お与志さんの分があったんじゃございませんか」
今度はお与志が答えた。
「はい、でも私は井野屋までお茶の葉を取りに出かけたので……」
「その茶菓子は食べなかった。先ほど、このあたしに“茶菓子はひとつしか残っていない”とおっしゃいましたよね。そいつをあたしに出してくれるはずだった。うむ、その茶菓子、持って来てはくれませんかね」
お与志が運んで来たのは、桜餅だった。こしあんの餅を塩漬けの桜の葉でくるんだ餅だ。
どこといって変哲のない桜餅だった。
「お茶をいただきやしょう。だだし、この桜餅は、ここで食べずに持ち帰ってもよろしゅうございますか」
円朝は卯之吉に断りを入れた。懐紙に桜餅をくるんだ。
お与志は、円朝のすることを不思議そうに眺めていた。と、思い出したように、
「そうそう、佐之助さんの忘れ物がございました」
と言って、自分の部屋へと入って行ったようだった。やがて戻ってくると、
「これ、佐之助さんの落とし物だと思うんですけれどね。佐之助さんがお帰りになったあとで、この座敷で拾ったものなんですよ」
言って、取り出したのは結城紬の巾着袋だった。
「むっ」