第三話 「一本桜」(70)

「胃の腑を押さえていたなぁ。助けになるならいいのだが」
浅草田原町には弘庵という医者が住まいしている。円朝とは懇意の仲である。
浅草稲荷町の寄席で一席を務めたあと、円朝は田原町まで足を運んで、弘庵に卯之吉の様子を語った。
青白い顔、痩せた体躯。差し込むという胃の痛みに眉をしかめる卯之吉の顔。噺家の円朝は、卯之吉その人が座っているかのように所作で演じてみせた。
「うーむ、胃の腑か……。一度、脈を取りたいがそれまでのつなぎにこの薬をそのご老人に運んでおいてくださらぬか」
円朝が演じた卯之吉の様子から、弘庵は六君子湯という煎じ薬を円朝に渡した。
「甘い物は胃の腑には良くない」
と弘庵が言ったので、菓子を避け、円朝の母親のおすみが漬けた早生の瓜の浅漬けを割子に入れ、さらに信玄袋に包んで卯之吉への手土産とした。
麻布の暗闇坂を登っていく。円朝の目に飛び込んできたのは、昼なお暗い坂道に、見事な満開の花をしだれ枝に咲かせている桜の樹の華やかさだった。
広大な屋敷地に囲まれて、卯之吉の桜屋敷はひっそりとある。昼なお暗い。
円朝は塀に設けられたくぐり木戸ではなく、桜屋敷の正面玄関に向かうため坂を登った。
表玄関で声をかけると、お与志が迎えに現れた。
「あらまぁ、旦那様に二日続けてお客様とは珍しい」
とお与志はうれしそうに言った。
「ほぅ、すると昨日どなたかお訪ねがあったんですかぃ」
円朝が尋ねると、お与志は、
「あら、いけない。よけいなことを話しましたねぇ、あたしゃ」
言って、奥座敷へと円朝を案内していった。
奥座敷は庭に面している。日向ぼっこをしながら卯之吉老人が座っている。
「おぉ、円朝さん。春が、春が参りましたなぁ」
卯之吉の視線を追って、庭を眺めると、塀ぎわの一本桜がしだれた枝に花を咲かせている。満開の桜の花である。
その庭には、他に華やかなものとてないのでよけいに満開の桜は際立つ。
「うーむ、見事な眺めでございますな」
円朝もうなった。うなりつつ奥座敷の縁側に腰かけた。
しばらく二人で、一本のしだれ桜花を眺め続けた。何も言葉を交わさなかった。
お与志が茶を運んで来た。
「旦那様、昨日いただいた茶菓子がひとつしか残っておりませんが」
「あぁ、そうだったか。うーむ円朝さんおひとりだけ茶菓子というのも不躾だな。そうだな、お店に行って、何か茶菓子を用意してもらってきておくれ」
と卯之吉が言うのを、円朝が制した。
「知り合いのお医者の言うことにゃ、甘いものは胃の腑によろしくないそうですぜ。その代わりといっちゃなんですが、瓜の浅漬けを持って参りました。これを茶請けに」
言って円朝は信玄袋ごと、お与志に預けた。併せて弘庵から預かった薬も渡した。
「それじゃ、あたしは井野屋に行かなくてよろしいんでございますね。旦那様、昨日のようにご来客中に居眠りをなさいませんように、あたくしがしっかり見張っておりますからね」
お与志は、円朝から渡された弘庵の調合した六君子湯を両手に卯之吉に言った。
円朝は庭の桜を眺めたままに、背中の卯之吉を慰めた。
「ほぅ、来客中に居眠りですか。あのしだれ桜だ。ぽかぽか陽気だぁ、居眠りをなさるのも無理はございませんよ。ところでどなたがお出でになったんですかい」
卯之吉が円朝の背中に向かってつぶやいた。
「宗助さんの代理の方で、佐之助さんとおっしゃるお方でした。何でも宗助さんは江戸に戻ってきているが身体を壊しているので、近日中にはお出でになるが、それまでのつなぎの挨拶にと言って、茶菓子を持ってあいさつに来てくださいましてな」
お与志が卯之吉の言葉に続けて、
「お客様だというんで上等のお茶の葉をと旦那様がおっしゃったのに、ふだんは来客もないものでございますからね。この桜屋敷にはふだんのお茶の葉しかなくて、わたくしが坂の下にある麻布井野屋まで、上等のお茶の葉を取りに、つかいに出たんですよ。そうしたら井野屋は大変な繁昌で、お店を手伝うことになりまして、つい半刻ほどしてから、この屋敷にやっと戻って参りましたら、そのぅ、旦那様が」
「佐之助さんをお迎えしているというのに、私が居眠りをしてしまいましてな」
円朝は桜の見事な庭から背をくるりと回して奥座敷の卯之吉を見た。
卯之吉は藍絣の着物の上に十徳を着て、頭を掻いていた。
「ほぅ」
と返事を返しながら、円朝は掛け軸を眺めた。浜辺の松に笑顔の翁が釣り竿を持ち、朝日に鶴が二羽飛び立つ掛け軸だ。新年迎えの掛け軸をそのままにしているらしい。
円朝が目に留めたのは、その掛け軸がほんのわずかにずれていることだった。
「その佐之助さんというお方は、旦那様が居眠りをなすっている間は、どうなすっていたんですねぃ」
立ち上がった円朝が尋ねた。
「私を起こしてはいけないと気遣ってくださったようで、じっと庭の桜を眺めておいでになったそうでございますよ」
と卯之吉老人は笑って答えた。
「ふーむ、そうですかい」