第二話 「二人でひとり」(62)

大名家も、そこに務める武士も、中間たちへの管理監督の義務はあるが、それがおろそかになる場合もある。中間部屋はときに賭博場として、町人を引き入れることまであった。
まして黒船がやって来てからは、西欧式の歩兵を整備する藩が多くなり、足軽に代わって、新規に雇い入れる中間に、洋式鉄砲の歩兵隊の任を与えた。
ここに隙ができる下地があった。誰かれとなく鉄砲歩兵の中間に雇い入れるようになったのである。闇のなか、奉公人屋敷の木戸が開く。明かりがこぼれた。
「さぁ、俺の渡した紙を出しねぇ。その紙の八咫烏の花押を見せりゃ、お前ぇさんが俺たちの仲間に加わったってぇ証しになるんだ」
末松は思い出したように、昨日、助造から受けとった紙片を取り出して、部屋の門番の男に差し出して示した。
「さぁ、早くなかへ入ぇりねぇ」
門番の男は、助造が書いた八咫烏の花押を確かめて言った。
男は花押の書かれた紙片を末松に返した。途端に助造が二人の背中を押した。
末松と捨吉は中間部屋のなかへと入った。蝋燭の明かりがまぶしい。
「そいつらかい、新しい手数ってぇのは」
背は低いがいかつい体つきの、目をぎらぎらと光せた男が、末松と捨吉をにらんだ。
末松は男ににらまれて、ぞっとした。長脇差しを脇に置き、手には五寸釘を持っている。
「俺が文蔵だ。今宵はしっかり働いてもらうぞ」
末松は黙って首を縦に振った。他にも、男たちが十二、三人はいるのだろうか。それぞれが、奥の部屋で濃鼠色の忍び装束に着替えている。奥の部屋に文蔵が檄を飛ばした。
「俺たちの押し込みは、天下のためのおたから集めよ。幕閣は口では攘夷、攘夷とおっしゃるがな、夷敵に何の手立ても打てねぇ。水戸藩は烈公、斉昭様の時代に尊皇攘夷を掲げられてからの雄藩だ。幕府の腑抜けどもとは違う。慶篤様の代になってから、攘夷派を抑えておられるが、いいや、何、京では孝明天皇様が攘夷の詔を御触れになったんだ。水戸有志が立ち上がるときよ。夷敵が攻めてくるってぇときに、我らが立ち上がるのよ、その資金に、のほほんと江戸の町で金儲けにあかせていやがる大店たちから、天下のためになるおたからをいただくだけの話だ。いいか、これは天下のためなんだ」
ただひとり、助造だけが、
「へぃ、その通りで」
と文蔵に返事をした。忍び装束に着替えている者たちは、末松や捨吉と同様に、にわか集めの盗人たちに思える。浪人者らしき男もいる。刀を腰に挿している。末松がおどおどとしていると、助造が、
「さぁ、お前ぇさんたちも、さっさと着替えねぇ」
奥の間に、二人を連れて行った。末松は、一味の男たちが放つ異様なまでの殺気に、びくびくとしたが、捨吉は事態が飲み込めていないのか、末松を見習って、忍び装束へと黙々と着替えている。口はきかない。末松も捨吉も、助造から匕首を受けとった。捨吉はそれが何なのか分かっていない様子であった。
夜八ツ過ぎ、文蔵の命により、水戸上屋敷、中間部屋を出た一味は闇に乗じて、市兵衛河岸から舟に乗り込んだ。
「さぁ、舟を出しな」
船頭は助造が務めた。一味は藁菰を身の上にかぶり、身を隠した。助造の漕ぐ舟は、真夜中に野菜か炭でも荷として運ぶ舟に見える。文蔵がひとり、船べりに座って、藁菰をじっとにらみつけている。下には一味がいる。
「ふふ、引き込み役は仕込んである。あとは手はず通りにやるだけだ」
と文蔵は不敵に笑ってみせた。やがて揚場町の河岸に舟は着いた。
菰が外されると、一味は次々と岡にあがった。駿河屋に向かって走り出した。
駿河屋は寝静まっていた。宴席に泊まりを決めていた親戚が二十名ほど、奉公人が十五人ほど。他にお美津や円朝のように、主人の平右衛門から泊まっていくようにと勧められた者が寝間所を与えられていた。部屋数の多い、それほどの大店である。
夜八ツ半の少し前、文蔵一味は駿河屋の裏木戸に集まった。文蔵が助造に言った。
「開くか、開かぬか。それが今宵の賭けよ」
文蔵がじっと待つ。やがて、裏木戸が音もなくすっと開いた。
「手はず通りだな。約束は守ってやる。さぁ、内蔵へ案内してもらおうか」
「その約束通り、奪った金子は山分け。そして何より……」
文蔵に答えた男は、不気味な声で言った。
「お父っつぁんを殺っておくれんなりなさるね」
駿河屋若旦那の平次郎が文蔵に答えた。
「もちろんよ、さぁ、若旦那、駿河屋の内蔵へと案内してもらおうか」
文蔵一味は、平次郎の手引きで次々と駿河屋のなかへと押し入った。
内蔵は駿河屋の奥まったところにあった。鍵を開ける。造作もない。何しろ平次郎が鍵を持って一味を案内したのである。金子の詰められた箱が運び出される。
「やはり、お父っつぁんはお前ぇさんの婚礼に反対したかい」
唇の端をゆがめて文蔵がにんまりと笑った。
「まったくお父っつぁんは分かっちゃいない。お美津は俺のもんだ。この身代も俺のものだ。それに江戸の町を異人が大手を振ってのし歩くなんてざまにゃしたくねぇ」
薩摩藩が抜け荷で入手した舶来の時計や磁器なども運び出されていく。
「おたからは、市兵衛河岸の舟に積み込め。俺は始末をつけることがある」
文蔵は、脇差しをぎらりと抜くと、平次郎に、
「さて、駿河屋主人、平右衛門のところに案内してもらおうか」
平次郎を先に立たせて、廊下を歩き出した。
「お父っつぁんが盗賊に殺されて、俺も浅い手傷を負って、へへ、そこまでは文蔵さんと俺の仕掛けごとよぅ。傷が癒えた頃には、身代は親から譲り受けて俺のものとなりゃ、お美津を嫁に迎えて、駿河屋をもっと繁昌させてやる。ただし、文蔵さんのような盗人に入られるのは、この一回きりだぜ。俺の代になって押し込むようなことになったら奉行所に何もかも……」
平次郎が行燈の明かりで廊下を示しながら声をひそめて文蔵にささやいた。
「その心配は無用だ。この仕事を終えたら、俺は京へ上る。金子はいただいていくが、金には換えにくい薩摩藩の抜け荷は、薩摩藩を脅して、金に換える。平次郎さん。お前さんのところへ、たんまりとした金子としてお返しにあがるよ。ご縁はそれっきりだ」
「こりゃぁ、天下のためになることだよね、文蔵さん。あんたはそう言った」