第二話 「二人でひとり」(61)

泣きべそをかきながら、大声を出し始めた。
「しっ。黙っていろ捨吉っ」
大声を出されては大変である。末松は桜のかげから飛び出して、捨吉の前に現れた。
「あっ、兄ぃ」
「しっ。静かにしろ」
末松は口に指を当てて、それから捨吉をなだめるように、
「お前ぇは、和泉橋の下に帰っていろ。帰れ、いいから帰れ」
と声をひそめて言った。捨吉は、おかまいなしだった。大声で言った。
「やだい、兄ぃ。昨日の晩も帰って来なかったじゃねぇか。どこへ行ってるんだい。どこへ行っちまうんだい。ねぇ、兄ぃ、俺を、俺を、捨てないでおくれよぅ」
泣きじゃくりながら、末松の胸に飛び込んできた。
「大声を出すんじゃねぇ。どこへも行かねぇよ。明日には帰る。帰ってくらぁ。な、だから捨吉、お前ぇは今夜は和泉橋の下の俺たちの小屋に戻って待っていろ」
なおも小声で、末松は捨吉をなだめた。捨吉はなおも泣きじゃくる。
「やだい、やだい。俺たちは二人でひとりだって言ったじゃねぇか。生まれたときにゃあ親無しで、世間から見捨てられて、世間の隅でひっそり生きて、世間からどんなに冷たくされようとも、俺はお前を見捨てたりゃしねぇって兄ぃは言ったじゃねぇか。ゆうべも兄ぃは帰って来なかった。今夜だって、ひとりで出かけた。兄ぃは俺を捨てちまうんじゃねぇのかい。いったい何をしているんだい。俺はついていく。兄ぃについていく」
末松は、何度も捨吉に和泉橋の下へ帰るようにさとしたが、捨吉は泣きながらあとをついて来る。闇の神田川沿いの土手を歩きながら、
「覚悟を決めるしかねぇな」
末松は、泣き続ける捨吉の肩を抱いた。
「よし、連れて行く。俺がこれから行くところへお前ぇも連れて行ってやる。だがな」
捨吉は、ぐすり、ぐっすんとしゃくりあげていた。
「だが、これから行くところは怖ぇところなんだ。いいか、捨吉。お前ぇは口をきくんじゃねぇぞ。黙って俺のあとについて来るだけだぞ。いいな」
「うん、兄ぃのそばを離れたくねぇもん。分かったよ。黙っているよ。兄ぃ、俺を連れて行ってくれるんだね」
「だから泣くのはやめろ。静かにしろ。連れて行ってやる」
末松は、やっかいなことに捨吉を巻き込むことになったと思いながら、土手を急いだ。
ゴポンと神田川の水面が音を立てた。末松はビクリとした。鯉が河面を跳ねた音だった。
気を取り直して、闇の神田川を急ぎ足に進んだ。やがて市兵衛河岸が見えてきた。
市兵衛河岸の広場には、誰もいない。
夜四ツ半。月明かりのなかを人影がこちらに向かって来る。
「助造さんかい」
末松は声をひそめて言った。人影は提灯も持っていない。
「しっ、それ以上は口をきくな。約束の刻限だ。ついてきな」
助造は腰を低く構えて、市兵衛河岸を小走りにどこかへ向かう。
水戸藩江戸上屋敷。表玄関ではなく、高い白壁の脇を進み、木戸を助造が叩いた。
音もなく、木戸が開いた。末松は驚き、たじろぎもしたが、
「さっ、早く。なかへ入ぇるんだ」
助造にうながされて、木戸をくぐった。
「ほぅ、弟分てぇのは、そのお人かぃ。よろしく頼むぜ」
助造は末松に続いて木戸をくぐった捨吉に言ったが、捨吉は末松に言われているからか、うんともすんとも返事をしなかった。
「荷を運び出す手数には、少し背格好が小せぇようだがな。まぁ良いだろう」
助造は、水戸屋敷のなかをゆったりと歩き出した。おぼろ月が冴えた。急に明るくなった。庭園が末松の目に広がった。
「大名屋敷ってぇのは、それも水戸様ともなると……」
心のなかにつぶやいた。噂には聞いていたが、こんなに立派な庭園と道。
町人が暮らす江戸市中とは別世界だ。極楽があるとすればこんなところだろう。
広い、丹精もされた庭園が月明かりに浮かぶ。末松の目には驚きしかなかった。
「きょろ、きょろしなさんな。さっ、こっちだぜ」
助造が二人を連れて向かったのは、奉公人屋敷であった。いわゆる中間部屋である。
中間とは武士の身の回りの雑用をこなした非武士である。江戸期には必要な時のみ口入れ屋から雇い入れられた。近在の百姓の次男、三男などが奉公に就いたものである。
参勤交代のときに、奴さんを務めるのがこの中間である。
また江戸では中間を専門職として、武家屋敷に次々と奉公する渡り中間も多くいた。
その住まいは、仕官している武士たちと同様に大名屋敷の一角に設けられていた。
中間は武家とは直接の仕官の関係にはない。