第二話 「二人でひとり」(60)

駿河屋の主人、平右衛門であった。盃を片手に持ったまま、じっと円朝を見つめている。
「うーむ」
また深いため息が聞こえた。
「なるほど、恋に焦がれているうちが花か」
盃の酒を杯洗にさっとこぼして、洗うと、
「円朝師匠、よーく分かりました。平次郎が惚れたというだけで、縁組みなんぞはおこがましい。今宵はお美津さんとやらが、嫁にふさわしいかを見極めるつもりだったが、見極めなきゃならなかったのは、平次郎。お前の了見です。ふさわしくないのは平次郎、お前の方だ。お美津さんにお前では、お美津さんに申し訳がない。この縁組み、しばらくはお前の了見が改まるかどうか、先に延ばして考えさせてもらおう」
「ちょ、ちょっと待っておくんなさいよ。お父っつぁん。あんな噺家風情の話で、俺の了見がどうのとかって、いってぇ何の話です」
「お前の金遣いだ。そもそも吉原へお前は何日に一回、足を向けているんです」
酒の勢いもあってか、平右衛門は息子の平次郎を叱り始めてしまった。
「嫁取りをしたい娘がいるから、見定めの宴席を開いてくれというお前のわがままを親の甘やかしから、こうして開いたが、うむ、それはただの甘やかしだ。それに気がついた」
「旦那様、旦那様、お酒が過ぎたようでございます。どうかこの場は若旦那にも花を持たせて、そうでないと、今宵の宴席にお集まりいただいたお客様に失礼にあたります」
平右衛門の前に飛び出して、頭を下げ、とりなそうと口を利き始めたのは、大番頭の為七であった。為七はくるりと身体を宴席の方へ向けて、
「えー、今宵はお忙しいところをお集まりいただいてありがとうございました。旦那様は少し、ご酒が過ぎましたようで、失礼の段、ひらにご容赦願います。今宵はこれにてひとまずはお開きといたしまして、残りのお料理、お酒はお持ち帰りいただきます。ささ、小番頭に手代さん、それに丁稚どんたち。何をしているんです。皆様に失礼がないように、お見送りを、さぁ早く」
この場をとりなして治めたい為七であったろう。
客は料理に酒、円朝の噺に満足した様子で、三々五々に席を立った。
残ったのは駿河屋の親類と奉公人である。主賓席にはまだ平右衛門と内儀が座ったままだった。若旦那の平次郎は、円朝をにらみつけると、ぶ然とした顔で座敷をあとにした。
おそらくは自室に戻っていったのであろう。
「んじゃぁ、おらも失礼いたしますだ。駕篭さ雇う銭はねぇだっけ。夜道のことだもんで、神田までの道を帰るのに提灯を持って来ただ。蝋燭に灯す火を貸してくんなせぇ」
お美津があいさつをして帰ろうとしたのを平右衛門が呼び止めた。
「お美津さん。今夜は済まなかった。あなたに失礼が多々あった。どうか了見違いの息子に代わって、この平右衛門が頭を下げます。許してください」
酔いによろけながら、頭を下げる平右衛門であった。
「おら、料理も美味しくて、円朝師匠のお噺も伺えて、楽しかっただよ。どんぞ、頭さあげておくんなせぇ」
笑顔で答えるお美津である。
「うむ、気に入った。いやぁ気に入った。夜道は危ない。どうです、今夜はこの駿河屋に泊まって、明日の朝にお帰りになっては。いや、そうだ。ぜひそうしてもらいましょう」
平右衛門は、すっかりお美津が気に入ってしまったらしい。それだけではなかった。
「円朝師匠、あなたとはじっくりとお話がしたい。駕篭屋さんを伴っておいでのようだが、どうだろう。今夜は師匠も泊まっていってはくれまいか。ぜひそうしてください。お料理にもあまり箸をおつけになっていないようだし、噺の前ということからかお酒も召し上がっていないようだ。いまから酒と肴の支度をさせます。ぜひわたくしの話し相手になっていただきたい」
このわがままぶりが、血を通じて息子の平次郎にも伝わったものかと円朝は思った。
ただ、人は良さそうである。
「ところで円朝師匠、先ほどのお噺は何という演目ですかな」
平右衛門の問い掛けに、
「さぁて、あたくしもとっさにこしらえた噺でございますから」
円朝は、ふふと笑って、
「そうさなぁ、花見船頭とでもつけますかな」
きょとんとするお美津の顔を見て言った。夜四ツ半になろうとしていた。
柳原の土手、和泉橋の下で末松は出かける支度をした。端正な着物から、ふだんのぼろ着に着替えた。掘っ立て小屋を抜け出した。あたりは真っ暗である。
神田川沿いの土手を歩く。提灯もないことで、月明かりだけが頼りである。
柳原の富士塚を過ぎ、昌平橋を通り過ぎたところで、夜四ツを知らせる鐘が鳴った。
「いけねぇ。もう四ツか。急がねぇとな」
昌平坂学問所から水道橋まで歩けば、市兵衛河岸はすぐそこである。
夜四ツ半には、市兵衛河岸で助造と待ち合わせている。
夜九ツには頭目や一党と会い、夜八ツ過ぎには神田川に舟を出す。
遡上して揚場町に乗りつけ、駿河屋を襲う手はずになっている。
「頭目は、どんなお人だろう」
まだ一味に加わったわけではないのに、末松は盗賊気分で、闇の神田川沿いを急いだ。
ひた、ひた、ひた……。わらじを履いた自分の足音が響くのだと思った。違う。
「あとを、つけられている」
岡っ引きか、役人か。もう盗賊一味に加わったと目をつけられて、あとを追われているのではないか。びくびくとして末松は背を丸め、行く先にあった土手の桜の樹のかげに隠れた。ひた、ひた、ひた……。追って来る者の足音が近づいた。末松の胸が高鳴った。
「兄ぃ、どこへ行くんだい。ねぇ、兄ぃ、どこへ隠れちまったんだい」
捨吉の声だった。おろおろと土手の上で末松を探している。
「兄ぃ 兄ぃ」