第二話 「二人でひとり」(59)

円朝は何と、平次郎の声色真似をしてみせたものである。
「おぅ、お美津。歩くなぁ疲れたぜぃ。あすこに船宿がある。どうでぃ舟の上から大川の桜並木を花見と洒落こもうじゃねぇか」
宴席の一座がおぉっとどよめいた。仕草までが平次郎その人だったからである。
が、それもすぐに鎮まった。
「そうね、平次郎さん。舟の上から桜の花見、粋なはからいというものだわ」
江戸娘に口調は変じているが、仕草はお美津そのものを円朝は演じてみせた。
二人は船宿に入る。そこにはたったいま客を降ろしたばかりの汗だくの船頭が、
「へぃ、おありがとう様でございます。あっしゃ船頭の太助っていいやす。どういたしやしょう。はっ、へぃ桜並木を遠くに近くにお眺めになりてぇ。よござんす。吾妻橋をくぐって、両国橋あたりまで廻りやしょう。へぃ、お嬢さん、舟に乗るときゃ頭の飾り物を屋根へぶつけねぇように腰をかがめておくんなさいやし。揺れますんでね、お気をつけんなって。若旦那のほうは舟に乗り慣れていらっしゃるとみえる。いきますぜ、それじゃ、そうれっと」
舫ってあった舟の浅瀬を棹で漕ぎ出す仕草である。それも閉じた扇子を長く持っている様子でみせた。
舟は屋根舟、舟上に屋根がしつらえられ、客はなかへ座る。
屋形船とはいうが、屋形船は巨大船に館を設置して、室内を立って歩けるほどに設計された船をいう。江戸の大川を行き来していたのは、本来は屋根舟である。
平次郎が障子を開ける、外の景色に桜が満開である。さらりと大川の水流に平次郎は盃を手にとって、川面からすくってみせたものがある。桜の花びらであった。
「まぁ、若旦那は粋が着物を着ているようなお方だこと。白い杯に桜の花びら。外を眺めるばかりでなく、こんな船のなかでも花見ができるもんですねぇ」
「お美津、盃の桜の花より、障子の外に満開の桜より、お前ぇの方がきれえだぜぃ」
すっと見得を切ってみせた円朝であった。
「よっ、ご両人っ」「たっぷりぃ」
と宴席の客から声が飛んだ。円朝は扇子を棹に見立てて
「はぁ、はぁ、ぜい、ぜい。棹はやめて艪に変えよう。それにしても今日はこれで十二組目だ。繁昌もいいが、こうも客が途絶えないとなると、船頭稼業も酷ってもんだぜ」
船を漕ぐのに必死の船頭の太助に成り代わっていた。半開きの扇子は艪に見えた。
「はぁはぁ、なかじゃ二人がしっぽりとやっていやがる。お酒手をはずんでくれりゃあいいが、こうも男が女に夢中じゃ、俺にお酒手なんて気がつきゃしめぇなぁ」
ぎぃっ、ぎぃっ、ぎぃっ……。円朝の持つ半開きの扇子は艪を漕ぐ音まで立てた。
「俺も桜並木は眺めてぇもんだが、こう客続きで働きづめじゃあ、汗が目に入ぇって、咲いている桜も見えやしねぇ。ったく桜に囲まれちゃいるが花も見えねぇ船頭稼業よ」
額に汗が流れた。円朝の顔は真っ赤であった。本当に艪を漕ぐ太助そのものである。
「へっ、なかの二人ぁ、俺と同様。桜なんぞ見やしねぇで、お互いの顔ばかり見ていやがる。もっともなぁ、俺の長屋の隣の八兵衛んとこに来た恋女房、ありゃぁお多江っていったっけ。なんでも互いに惚れて惚れて、惚れ抜いて所帯を持ったってぇ話だったが、三年も経たねぇうちによ」
円朝は目をしばたかせて、目に入る汗が染みるという表情をしてみせた。
「惚れの病も、恋の病も醒めてしまえば何とやら、のべつ夫婦げんかを繰り広げてやがったと思ったら、ちょうど今年の春だぁ。所帯してから三年と経たねぇうちにかみさんの方が出ていっちまった。それっきり行方知れず。八兵衛はやもめに後戻りだぁ。はは、恋ってぇやつはよぅ」
ぎぃっ、ぎぃっ、円朝が半開きの扇子で立てる艪の音が宴席に響いた。
「恋に焦がれているうちが花だなぁ。へへっ、なかの二人ぁそれに気がつかねぇのかな」
うっううぅー……。突然に舟を艪で漕いでいた太助は、うずくまってしまった。
胸のあたりを苦しそうに抑えている。
「あぁー、いけねぇ。働きづめに働きすぎで、もう艪を握る手がしびれてきやがった。あぁ、遠くの桜並木がぐるぐると廻りやがる。目が回ってきたんだな。こいつぁいけねぇ」
ばたりと高座の座布団に前屈みに倒れてしまった円朝である。
「ああ、舟が舵を失って、大川のまん中でくるくると廻りだしやがった。もうおしめぇだぁ。俺ぁ、どうすりゃいいんだぁー」
倒れた太助を演じていた円朝はすぅーっと背筋を伸ばすと、地の口調になって、
「何やら、船べりを叩く音がします。ふと舟先を見ると一匹の鯉。人の子どもの背丈ほどはあろうかという大きな鯉が船べりを叩いて泳いでいます」
途端に円朝は疲れ切った船頭の太助になりきって、
「な、何でぇ手前ぇは」
「へい、あっしは大川に住んでおります鯉でございます。大川を遡って、武州秩父の長瀞ってぇところの滝を昇れば、龍になれるところだったんですがね。いまの親方みてぇにあっしも疲れに目が廻りやして、ついに滝を昇れなかったんでさぁ。そうしたら大川の底にお住まいの観音様、ほら、奈良に都があった頃に、大川の浅草で網にかかって、浅草寺にまつられることんなったあの観音様でございますよ。その観音様がおっしゃるには、大川で難儀をする者を千人助けたら、滝は昇れずともいずれは龍に取り立ててやろうってね。そいであっしはこの大川を泳いで難儀をする千人を探していたんだ。親方はなんでしょう、そのぅ船頭さんでございやしょう。千人の胴を持つお方だぁ。親方ひとり助けりゃ、あっしは龍になれるんで。そこでどうでございやしょう。あっしに、このくるくる廻る舟を漕がせてやっちゃあくれやせんか」
「そっ、そいつぁ助かるぜぃ。棹はこれだぁ、艪はこれだぁ。俺の代わりに舟ぇ漕いでくれぇ」
ざばざばっと舟のうえに登って来た一匹の鯉。ひれからにょきりと両手を伸ばすと、
「♪えぇー、舟は艪でやれ、艪は粋でやれー。鯉が漕いでく屋根の舟ぇーっ」
唱いながら、太助の代わりに舟を漕ぎ出した。
屋根の下では平次郎とお美津が手を握り合って見つめ合っている。太助になった円朝は、ほっとしたように遠くを眺め、川風に吹かれているという仕草で、
「ほほぅ、風が気持ち良いやぁ。舟は漕ぐより乗るに限るな。ああ、なるほど大川端に満開の桜並木だぁ」
大川をすれ違う舟の上から仲間の船頭が、声をかけてくる。
「おぅ、太助さん。お前ぇ、そんな鯉に舟を漕がせて手前ぇは花見三昧かい」
と、円朝は背筋を伸ばして、扇子を手前に置き深々とおじぎをした。
「ああ、鯉に漕がれているうちが花よ」
宴席の一座は突然のサゲに言葉を飲み込んだ。
「うーむ」
といううなり声が響いた。