第二話 「二人でひとり」(58)

「ああ、俺が円朝だ」
お美津の隣席が空いている。膳部に酒のお銚子が一本つけてある。
円朝は高座席の紫座布団に座る前に、お美津の隣に座った。
まずは夕餉を食べて、それから余興の高座という次第だからである。
「ほぅ、こりゃ八百善に仕出し料理をあつらえたな。豪勢だ」
と料理を見て円朝が言った。お美津はうれしそうに答えた
「おら、こんなに立派なお屋敷に招かれたことはないだよ。それにこんな美味しそうなご馳走も見たことぁねぇだ。駿河屋の手代の人が花房屋にやって来て、幸助旦那とお話をしていたかと思うと、幸助の旦那がおらを呼びなさって言っただ」
「ほぅ、何て」
「駿河屋さんの宴席にお前ぃさんをお招きだ。お店が仕舞ったら行っておいで、って」
「ふーん。お美津さんはご来賓様ってぇわけだ」
来賓にしては末席である。おそらくは若旦那、平次郎の嫁としてふさわしいかどうか、この宴席に集まった主人、内儀、大番頭、小番頭、親戚、縁者たちがお美津の人となりを見定めるというか、吟味をするのが目的だろう。人によってはじろじろと、人によってはさり気なく、ちょろりちょろりとお美津に視線を向ける。
そういえば、円朝が初めて花房屋にお美津を見に出向いたときに、退席する円朝とすれ違った役者風情のやさ男が主賓席に座っている。若旦那の平次郎だ。円朝の視線には気がつかずに、じっとお美津を見つめては盃を手ににんまりとし続けている。
「無礼な話だ」
声には出さなかったが、円朝は内心に思った。
そんなことには気がつかない様子で、お美津は目の前のご馳走に目を見張っていた。
茶屋で習い覚えた務め仕草からか、右隣に座る円朝ばかりか、立ち上がると、あちらの客へ、こちらの客へと盃に酌を注いで歩く。その仕草は立ち働くのが楽しいといったところがある。何より笑顔を絶やさない。純だ。無垢である。
「おい、お美津。こっちへ来て、俺にも酌をしろ」
命ずるように平次郎が言った。お美津はすすっと足さばきも優雅に、主賓席へと向かった。と平次郎の隣に座る駿河屋の主人が口を開いた。
「当家の主、駿河屋の四代目の平右衛門です。この平次郎がどうしてもお美津さん、あなたを招きたいと無理を言ってな。わざわざ神田花房町の……。それも茶屋からお出で願ったとは申しわけなかったなぁ」
厭味の交じったあいさつをした。お美津はその言葉を気にもかけず、三つ指をついて、
「お美津と申しますだ。若旦那様には花房屋をご贔屓にしていただいて、ありがとうごぜぇますだ」
田舎訛りも恥と思わずに、ていねいなあいさつを返した。
「お美津、あいさつはいい。さぁ俺に酌をしてくんな」
平次郎は言うや、お美津の手を取ってぐいっと身体を引き寄せた。体勢を崩したお美津は、平次郎の懐に抱かれる恰好となった。
「あんれぇ、やめておくんなせぇ、若旦那様」
お美津が言うのも無視して、にやけ顔の平次郎はひざのうえにお美津を抱いて上機嫌。
「何です、平次郎。たくさんのお客様の前でみっともない」
主人、平右衛門の隣にすましていた内儀が、息子を叱った。それだけではなかった。
「お美津さんとやら、あなたもあなたです。そうやって誰彼となく色目を使うから、うちの平次郎が色香に迷ったりするんです。お離れなさいっ」
それでも平次郎はお美津の手を握って離さない。
「あんれぇ、やだよぅ。若旦那様、そのお手をお離しんなっておくんなさいましよぅ」
主賓席でのやりとりを眺めていた円朝は思った。
「ふぅ、嫁取りの吟味か。あの内儀の叱りようったらありゃしねぇ。もし縁づいたら、しゅうとからの嫁いびりにお美津さんは苦労するだろうよ。それに」
あの平次郎という息子、遊び癖の延長でお美津を見そめたに過ぎない。
嫁にとったところで、酒癖も悪く、女遊びもやめそうにない。遊び癖で嫁を取るとは、
「了見違ぇもはなはだしいぜ」
と内心にまた思った円朝であった。
四半刻も過ぎたであろうとき、小番頭が長座の末席に座っていた円朝に耳打ちをした。
「師匠、そろそろ座も賑わって参りました。ここいらで一席のお噺でさらに座を盛り上げていただきとう存じます」
「はいよ。さて、何を演ろうかね」
立ち上がった円朝は、すべりと呼ばれる舞踊の足取りに白足袋を滑らせて、紫の座布団へと向かった。背を正し、座布団に向かうときから優雅さと気品を重んじる。
武士が戦場へ赴くようなものなのだ。円朝にとって高座にあがるとはそうなのだ。
「えぇー、座もお賑やかになって参りましたところで、一席、皆様の御機嫌を伺いたく存じます。あと四、五日も過ぎれば桜の花も開こうかという陽気でございます。そぞろ歩きに桜を眺めるのもご趣向でございますが、何といっても大川端なんぞで、舟の上から土手にずらりと咲き誇る桜並木を眺めるなんてぇのも、おつなものでございます」
小声でぶつぶつと、小さな声が宴席に聞こえる。軽妙でありながら、歯切れの良い口調。耳障りの良い声色。それぞれが談笑に、騒ぎに、にぎやかにしていたところへ、そんな円朝の声が聞こえてきた。皆が何の声かと振り向いた。
「今宵はご趣向で、いまわたくしがこしらえました噺をお聞かせいたしとうございます」
ざわめきがしんとやんだ。皆が耳を小声の円朝の語りに、思わず知らず傾けたのである。
とたんに声を大きくした円朝が、
「やれやれぇ。ったく花見もいいが、こう客が四六時中じゃあ休む間もありゃしねぇ」
大川を行く船頭と成り代わって、艪を漕ぐ仕草に入った。艪は畳んだ扇子である。
「と、大川端の土手を歩く二人づれ。男の身なりは藍のやたら縞に茶の羽織、古風な本多髷の良い男、千両役者といった風情。女はと申しますと扇面の朱の小袖に深い緋色の市松の帯、これまだ可愛い器量の娘でございまして」