第二話 「二人でひとり」(57)

ぽんと末松の肩を叩いて、横並びに歩き出した。そしていきなり言った。
「押し込みはな、今夜と決まったぜぃ」
広い市兵衛河岸である。人の目も耳も立たない。
「駿河屋は戸締まりも厳重だ。なかなかに忍び込めやしねぇ。だがひとつの穴がある。若旦那の平次郎よぅ。野郎は吉原通いが三日と空かさずだ。明け方に駿河屋に戻る。戸締まりが開くのは、その一瞬だ。そこを狙って刃物を見せりゃ押し込みはわけがねぇ」
助造は、末松と並んで歩きながらささやくような小声でそう告げた。
「と、まぁ……。ふふ、その算段だったが、やっかいな懸念がある。表木戸が開いて、平次郎が駿河屋のなかへ入る途端の押し込みじゃ、声をあげられちまう。近頃は奉行所の岡っ引きや同心が、江戸市中を見回っていやがる。火盗改めまでが夜の警備に余念がないってぇことはお前ぇさんも知っていなさるだろう。声をあげられた途端に、夜回りの役人に知らせが走るかもしれねぇ。吉原帰りを襲うのは危ねぇと頭目はご判断をした」
「へぇー、なるほど。それで」
末松は内心はびくびくしながら助造の話に相づちを打った。
「押し込みが今夜に決まったには、それなりの段取りがあるのよ。今夜、駿河屋では身内の宴席があるってぇ聞き込みが入った。何でも、平次郎が嫁取りにしたがっている娘というのが花房町の茶屋にいてな。平次郎はもう嫁にするといってきかないんだそうだが、駿河屋では主人夫婦はもちろん、大番頭ひとりに、小番頭二人、それと親類、縁者を呼び招いて、宴席にかこつけて、その娘が駿河屋にふさわしいか吟味相談の会を催すってえ運びになった。さすれば駿河屋は皆んな酒が入る。宴席に浮かれ、戸締まりは手薄になる。酔いつぶれの寝込みを襲うとは、駿河屋の連中は思いもかけまい。しかも駿河屋の裏木戸を開けてくれるのは、ふふ。聞いたらたまげるお人だぜぃ……」
木戸を開けてくれるのは誰なのか。そんなことは末松にはどうでもよかった。
それより尋ねておきたいのは、
「そ、それで駿河屋に忍び入ったら」
そこから先のことだけである。
「ふん、おとなしく眠ってくれていりゃぁ千両箱の十や二十は運び出す、ご禁制の南蛮渡来のおたからとやらも盗み出す。そうして荷預かりをさせている薩摩に裏から話をつけて買い取ってもらう」
「おとなしく眠っていなかったら、起きている者がいたら……」
助造は、ふふんと鼻で笑った。
「お前ぇさん、根っからの盗人じゃねぇな。昨日、今日のにわか盗人だろう」
「そっ、それは」
「まぁ良い。頭目は手数を探しておいでなんだ。おたからを運び出す手数をな。そうさな、おとなしく寝ていてくれねぇ者がいたら」
助造は、懐から匕首を取り出した。
「胸でも腹でも首でもいい。この刃ぁぶち込んでやれ。そうして二度と目が醒めねぇように、おねんねしてもらうまでよ」
助造は、さきほどまでの人なつこい顔から鋭い目つきに豹変して、
「やい末松。手前ぇもこの話を聞いたからには、俺たちと極楽へ行くか、俺たちに地獄へ送られるかの二つにひとつよ。覚悟を決めやがれっ」
凄んでみせた。
「わ、分かった。あ、匕首を貸してくれ」
「おっとっと。そりゃぁ駿河屋へ押し込む寸前てぇことにしようや」
助造はもとの人なつこい顔に戻って、
「なぁ、兄弟。うまくやろうぜ。お前ぇの弟分てぇのも手数にゃ欲しい。連れて来い」
ぽんと末松の肩を叩いた。
「刻限は、夜四ツ、亥の刻。舟はこの市兵衛河岸から出す。遅れるんじゃねぇぞ」
言って助造は、だっと走り去った。
末松は助造が駆けていく先を目で追った。黄昏はもう薄闇に変わっていて、しかとは見えなかった。が、水戸上屋敷へと助造は入って消えたように見えた。錯覚ではない、水戸上屋敷の木戸が開いたのである。
「水戸様の上屋敷。いってぇ盗賊の一味ってぇのは」
あ然とした末松だったが、ことはもう進んでいるのだ。
「とでも捨吉なんざぁ、連れていけねぇ。捨吉を巻き込むわけにゃぁいかねぇ」
思いながらも、神田川沿いを歩いて、柳原へ戻っていく末松であった。
末松が助造と小石川御門前、市兵衛河岸で会っている頃、暮れ六ツ刻には守蔵と伸兵衛のかつぐ駕篭は市ヶ谷揚場町の駿河屋の前へたどり着いた。
店じまいの支度に追われる駿河屋は、働いている者たちがにこにこと機嫌が良い。
駕篭から降りたのは円朝である。
「いらっしゃいまし。今宵は駿河屋の宴席にお招きのお出ばりを願いまして、ご足労様でございます。大番頭を務めます為七と申します。ささ、なかで酒と御膳の支度も調いましてございます。円朝師匠には余興と申しますか、一席のお噺を演ってご主人、女将、若旦那の御機嫌を伺っていただきたく座布団も用意してございます。ささ、なかへ」
大番頭の為七は守蔵と伸兵衛には一瞥をくれただけで、やたらと円朝を持ち上げる。
「為七さん、その駕篭屋さんは俺の馴染みなんだ。帰りまで軒先は可哀想ぇそうだ。なかの土間でもいい。寒さしのぎに茶でもふるまっちゃもらえめぇか」
円朝の言葉に、守蔵は、
「いや何、あっしたちは慣れてまさぁ」
答えたものだが、為七は大仰に、
「それはそれは、円朝師匠のお言いつけでしたら、駕篭屋さんたも土間で申し訳ないが、御膳を召し上がっていただきましょう」
お世辞を言って、二人を駿河屋のなかへといざなった。
駿河屋のお座敷は二十畳ほどの大広間である。すでに宴席は始まっていた。誰が親戚で、誰が縁者なのか分からない。ただ床の間を背に奥の間に控えているのは、主人と内儀、そして息子の若旦那らしい。居並ぶ客たちは盃を酌み交わしている。末席の主賓席の真正面に紫色の座布団が置かれている。そこが円朝の座る場所ということだ。座敷はコの字形の長座に招かれた客が座っている。その末席に居並ぶ客の中に、黄八丈を見かけた。
「あんれぇ、おとついのお客様でねぇか。おらぁ三遊亭円朝っちゅう噺家さんが名人と聞いていただけんど、もっと爺さまかと思っていただよ。お若けぇお客様がそのぅ、円朝師匠だんべか」
末席も末席のその端に、お美津がいるではないか。