第二話 「二人でひとり」(56)

伸兵衛もまた手ぬぐいを取り出して、濡れた身体を拭いていた。
どしゃぶりの烟る雨の中を駆けてくる男の姿が見えた。濃茶の羽織がびしょ濡れだ。目立つことに赤い番傘を胸に抱えている。男は赤い傘を身体でかばうようにして、自分は濡れながら駆けていくのだった。
「何でぃ、あの野郎。手前ぇはずぶ濡れんなって、破れ傘でもあるめぇによ。真新しそうな真っ赤な傘ぁ、大事そうに抱えて駆けていきやがらぁ」
守蔵が烟る雨の向こうに駆け去って行く男の姿を眺めながら言った。男は末松である。
「お美津さんが貸してくれた傘だぁ。濡らしちゃなんねぇ」
末松は一心にそう思っていた。
そのまま神田川沿い柳原土手の和泉橋の下の掘っ立て小屋に向かって駆けた。
結った髷が濡れ崩れるのも、羽織や着物がびしょ濡れになるのもお構いなしだった。
掘っ立て小屋に駆け込んだ。髪からも、顔からも、着物からもしずくが垂れた。
「兄ぃ、末松兄ぃ。どこへ行っていたんだい。それに、その身なりどうしたんだい」
「はぁ、はぁ、ぜぃ、はぁ」
息を切らしながら、末松は捨吉に言った。
「どこへでもねぇよ。それより捨吉っ、俺ぁでっけぇことをしてみせるぜ。江戸中がひっくりけえってたまげるようなでっけぇことをな」
ぽたぽたと身体中から雨のしずくをしたたらせながら末松は捨吉に言った。
昼過ぎには、雨はすっかりあがった。
守蔵と伸兵衛は、上野黒門亭から本所の満川亭に向かって駕篭を走らせていた。
「そんなことがあったんでさぁ。手前ぇがずぶ濡れんなって、真新しい傘を大事そうに抱えて駆けていくなんざ、ご酔狂ってぇもんでござんしょう、ねぇ師匠」
守蔵が駕篭のなかの圓朝に話しかけた。
「へぇ、濡らさず傘の濡れ鼠か。面白れぇ。何か仔細があったんだろうよ」
本所松倉町の満川亭に着いたのは、夕七ツ半。暮れ六ツより半刻早い。
円朝は楽屋入りすると、すぐに高座にあがった。
「えぇ、本来であれば前座が務める頃合いでございますが、わたくしの芸もまだ未熟。ここはひとつ前座に立ち戻った心得持ちで、一席のお付き合いを願います」
寄席の客はどよめいた。夜席でこんなに早く円朝が聴けることはまずない。
『おすわどん』という噺を一席語った。客は大いに喜んだ。
楽屋に戻った円朝は、前座が運んで来た一杯の茶を飲み干した。
満川亭の席亭、宗右衛門が現れた。
「すまないねぇ、こんなに早くにあがってもらって。だがどうしても円朝師匠にと先様がお名指しなのだよ。円朝師匠は、そういったお座敷遊びにはお招きできませんと私もお断りを入れたのだが、どうしてもと私は五両も積まれてしまってね。円朝師匠には十五両だそうだ。まったく大店のわがままと思って、どうか宴席の高座を務めに出向いちゃくれないかね。頼むよ、円朝師匠」
とあいさつをした。円朝は黙ってうなずいて宗右衛門の話を聞いていた。
円朝は、お代わりの茶を前座から受けとり、ぐっと飲み干すと、
「さて、次の高座はやっかいそうだ。駕篭屋さんたちを楽屋口に廻してくれ」
と前座に告げた。宗右衛門は済まなそうに、楽屋から去った。
ほどなく、守蔵と伸兵衛の駕篭が本所満川亭の楽屋口にぴたりと着いた。
「次の高座は寄席じゃぁねぇ。お座敷がかかったんだ。やっかいにも大店の旦那や奥方や若旦那の御機嫌とりの宴席だぜ。気はすすまねぇが、満川亭のご主人の頼みだ。俺も噺家だ。芸を聴きてぇってぇお方がいりゃぁ、どこへなりとお伺いしますってなもんだ。守蔵さん、伸兵衛さん。さぁ、駕篭をやっておくんな」
円朝を乗せた駕篭をすっと持ち上げて、先棒の守蔵が尋ねた。
「へぃ、師匠、どちらへお出ばりで」
「牛込揚場町の荷揚げ問屋、駿河屋だ」
夕暮れが闇に代わろうかという暮れ六ツ刻、駕篭は牛込に向かって走り出した。
その暮れ六ツ刻、飯田町の小石川御門前、市兵衛河岸である。
徳川御三家の水戸中納言の江戸上屋敷の前に広がる河岸は広場になっている。
神田川を上り、下りする舟がひっきりなしに荷揚げをし。河岸で働く男たちが市兵衛河岸のにぎわいを作り出しているのだが、もはや暮れ六ツのことで、人気は薄い。
ちらり、ほらりと人影が黄昏どきに見えるだけである。
末松は向こうからやって来る人物が誰なのか、見極められなかった。
だいぶ近づいて来てから、それが助造であると知れた。
「ほぅ、身なりを変えなすったかえ。もっとも昨日の明け方に会ったときのぼろ着の身なりじゃ、どこぞの店へとも入れねぇもんなぁ」
黄昏刻の市兵衛河岸に夕方の春風が吹く。人影は少ないが、広場のような河岸のあちらこちらに、飯屋、居酒屋が店を開いて提灯に明かりを灯している。
「どこか市兵衛河岸の一膳飯屋か居酒屋あたりで頭目からの伝え触れを聞かされるんだと思いやしてね」
と末松は、すっかり盗賊気分で助造に言ってのけた。
「はっはっはっは」
助造は笑った。
「飯屋も居酒屋も人の耳は立つってぇもんだ。伝え触れは、ちょいと歩きながら話そう」