第二話 「二人でひとり」(55)

閉じた扇子をぴしりと自分の額に押し当てて、満面の笑顔で幇間が答えた。
幇間の名は久助というらしい。
「駿河屋平次郎、花房屋お美津、神田明神、梅のなれそめってぇ狂言の一篇でも戯作者によって、したためられそうでげすな、こりゃ」
久助はお愛想を言うのに余念がない。若旦那の名は駿河屋の平次郎というらしい。
お美津が平次郎と久助に茶を運んで来た。二人が座ったのは末松の真正面だった。
「よぅよぅ、ご両人。お似合いでげすよ。平次郎とお美津。役者がそろいました。さて」
久助は、扇子を開くと頭に乗せて、嫁入りの角隠しに見立てた様子で、しなを作り、
「お腰入れは、いつざんしょう……ってねぇ。若旦那」
言われた平次郎がにんまりと笑って、茶を緋毛氈に置いたお美津の手を握った。
「なぁ、お美津。俺の昨日の話。考えてくれたかい」
お美津は苦笑いして、
「あんれ、まぁ。江戸のお人は気が短いってぇ聞いてただけんど。昨日、若旦那のところへ嫁っこに来いと言われて、今日のことだぁ。おら、たしかに江戸で嫁入りしたいと思って館山をあとにはしたけんど、この花房屋に奉公してまだ二日だもん。おら本当に嫁づいても良いと思うお人に出会うまでは、まだ茶屋娘を続けてぇと思っとりますだ。ねぇ、若旦那、そん手を離してくだせぇましな」
愛想笑いは崩さないが、困った様子のお美津だった。末松の心のなかはおだやかではなかった。駿河屋の平次郎はお美津に懸想していたのだ。嫁に来いと告げていたのだ。
青かった空が灰色に曇ってきた。末松の心をその雲が暗くした。
お美津に恋い焦がれているのは末松とて同じことだ。
「なぁ、お美津。そんな黄八丈に安もんの朱帯なんざ、似合ねぇぜ。勝山髷だって、娘っ子すぎらぁ。俺んとこへ嫁に来りゃぁ贅沢させるぜ。絹の小袖に華の被布を着せてやる。勝山髷なんぞやめて、高島田に結ってやる。美味ぇもんを食わせて、芝居にだって出かけさせてやる。なぁ、お美津ったら。心を決めちゃぁくれねぇか」
口説いている平次郎は、吉原で遊んでいる放蕩息子だ。何でも自分の思い通りにできると思っているのだろう。そう思わせているのは、
「金だ」
と末松は思った。
「金がありゃぁ、何だって思いのままなんだ。そうなんだ。俺とは」
俺とは違う。身なりは整えてきたが、もはや帯の巾着にはわずかな銭しか残っていない。
今夜の飯を食うのだって、さて捨吉と何を拾い食いするのやら。
「でっけえことだ。でっけえことをしなけりゃぁ……」
お美津は駿河屋の平次郎のものになってしまうかもしれない。
考えただけで、この茶屋にいるのがいたたまれなくなる。
「でっけえことだ」
末松は胸のなかで、何かが熱くなるのを感じた。
チチチチッ。とうぐいすが短く鳴いて、花房屋の空を飛び去った。空は先ほどまでの青空が嘘のようにすっかりと曇っていた。途端に、ざぁーっと春には似つかわしくない雨が降ってきた。花房屋の縁台に腰かけていた客たちは、花房屋の屋根の下へと逃げ込んだ。
末松は違った。もういても立ってもいられなかった。本降りの雨のなかへ飛び出した。
「お客さんっ」
末松は声に振り返った。
お美津が自分もずぶ濡れになりながら立っていた。手には番傘を持っている。
赤く染め抜かれた番傘であった。
「これ、おらんだけんど差していきなせぇ。せっかくのお身なりが濡れてしまうべ」
ときが止まったかと思った。
お美津が自分の傘を末松に貸してくれるというのだ。
末松は何も言えなかった。何も言えないまま、ずぶ濡れの雨のなか、お美津の赤い番傘をひったくるようにして、受けとった。じっとお美津の目を見つめた。
「お父っつぁま、早く見つかるといいだね」
言ってお美津は、末松に悲しげな笑顔を返すばかりだった。
末松は何も答えずにどしゃ降りの雨のなかを駆け出して花房屋を去った。
午前中から守蔵と伸兵衛は辻駕篭に出ていた。
二人が円朝を乗せて走るのは昼過ぎからである。その前にひと稼ぎというわけだ。
湯島を出て、日本橋界隈から本郷へ向かう客を乗せて走り、本郷でまた客を拾い、両国広小路まで走った。両国からはから駕篭でぶらりと湯島に戻る途中であった。
両国から柳原通りを神田川の土手沿いにのんびりと走っていた。そこへ突然の春の雨に降られた。和泉橋を通り過ぎ、松下町から九軒町へ抜ける最中だった。
「おぅ、伸兵衛。お昼過ぎに円朝師匠に乗ってもらうに濡れ駕篭じゃご迷惑だ。駕篭を濡らさねぇように。どっかの軒下を借りるとしようぜ」
雨宿りを決め込んだ。都合が良いことに、もとは商家だったろう仕舞た屋が見つかった。
仕舞た屋とは、仕舞った屋敷をいう江戸弁で、商売をしていない家屋をいう。
そのひさしの下に駕篭を入れ、守蔵は手ぬぐいで濡れた顔や手足をぬぐった。
雨脚は激しくなる。通りの向かいの家が雨に烟って見えないほどだ。
「ひでぇ雨んなっちまったね。ここに軒下があって良かったね、兄ぃ」