第二話 「二人でひとり」(54)

月代を剃る前に、はさみでばっさりと髪を切られた。
「こりゃぁ、おちゃないさんに買い取ってもらって、かもじ屋に売りやしょう。立派な熊鬘でも出来そうだぁ」
海老床の主人は、末松のご機嫌を取るように愛想の世辞を述べた。
小銀杏髷に結ってもらった。自分に一分の金を渡してくれたあの男、それが円朝とは知らなかったが、その男の髪に憧れたからである。
髪が整うと、末松はすっかりどこかの若旦那に見える。無精髭もさっぱりと剃った。
「俺ぁ、こんなつらをしていたっけ」
鏡に写る自分の姿に驚いたものである。
海老床を出ると、神田相生町から東叡山領の道筋を通って神田広小路へ出て、そのまま北へ神田花房町を目指した。目当ては花房屋のお美津である。
にぎわっている。今日も花房屋を訪れる客は多い。縁台にはぎっしりと客が座っている。
花房屋を囲むように人だかりができている。遠巻きにお美津を眺める男たちもいた。
末松は人混みをかき分けて前へ出た。すっとひとりの客が縁台を離れたところだった。
緋毛氈をしいた縁台に空きができた。すかさず、
「あんれぇお客様。ここが空いておりますよ。さぁお茶を召し上がっていってくだせぇ」
お美津が満面の笑みで末松を出迎えてくれた。
末松はびくりと驚いたが、お美津が勧めてくれた縁台に腰かけた。
茶が運ばれてきた。緋毛氈の上に煎茶の緑が美しい。
「お客様も神田明神様へ、これからご参拝かね」
お美津が末松に声をかけた。声をかけてもらえると思っていなかった末松は驚いた。
「あ、ああ。いなくなっちまったお父っつぁんに無事に戻って来てもらいたいと思って」
「あんれぇ、お父っつぁまが行方知れずって、そんりゃぁ心配だなぁ」
お美津は顔を曇らせた。末松に本気で同情しているようだ。
「でも親孝行なお人だこと。きっと明神様のご利益で、無事に見つかるだよ」
にこりとお美津は末松をなぐさめた。心の底から出た言葉に聞こえた。
お美津の笑顔に末松は胸が高鳴った。
「何か召し上がるかね」
「何があるのかな」
「そんだなぁ、いまよもぎ団子が焼き上がったところだよ。いかがかね」
「うん、それなら、それをもらおう」
末松は、ぐるりと花房屋を見回した。客は思い思いに茶を飲み、花房屋の菓子などを口にしている。末松をじろじろと見つめる目はなかった。
ぼろ着をまとっていた末松は、他人からじろじろと白い目で見られることに慣れていた。
その視線がない。ないばかりか、こざっぱりとした茶色の小紋に、濃茶の羽織を着た末松を、まるで役者を見るかのような羨望のまなざしで見る客までいる。
末松は生まれ変わった気分だった。何よりお美津と言葉を交わしたのだ。
ぼろ着をまとった末松だったら、こうはいくまいと改めて思った。
神田の空を見上げた。晴々と青い。春のかすみとはいうが、今日は真っ青に晴れた空だ。
西の方から厚い雲がやって来るのが見えたが、それより見上げた頭の上の青い空に末松の心はうきうきした。
「はい、お待ちどう様。焼きたてだんで、うんめぇよう」
お美津がにこにこと、よもぎ団子を運んで来た。串に四つの緑色の団子だ。それが皿に二本である。あんこまで緑色をしている。青隠元をの豆を裏ごしして、砂糖と混ぜたあんらしい。末松は、内心はおどおどとしながら、よもぎ団子を口に運んだ。
ふんわりと春のよもぎの香りがした。団子にはよもぎが混ぜ込んである。
軽く焼き目がついている。かりりと焦げた団子の内側は、ほくほくと柔らかい。
団子には塩気があって、青隠元の餡の甘味が増す。味わいながら、お茶を飲む。
「捨吉にも食べさせてやりてぇ」
思ったものの、口には出さない末松だった。
と、そこへ……。やって来たのである。駿河屋の若旦那だ。
紅梅の無地の小袖の下に、蘇峰色の襦袢。真っ白な帯。二つ藍の羽織。白足袋に浅黄色の草履。昨日とはすっかり身なりを変えている。春らしい身だしなみで整えている。
幇間が一緒だ。ゆうべ吉原で見かけ今朝方には駿河屋まで若旦那と同行したあの幇間だ。
「おぅ、久助。今朝も俺のお美津はべっぴんだろう」
「俺のお美津ときなさったね、若旦那。もう女房にするのは決まりってなもんでげすな」