第二話 「二人でひとり」(53)

ごぼうが黒く醤油で煮付けてある。砂糖をおごっているからか甘しょっぱい。美味い。
里芋も蓮根も同様だった。生姜の辛煮が白販に合う。かまぼこも歯ごたえがある。
何より卵焼きがでかい。出汁を効かせ甘く柔らかく焼いてある。
捨吉が喜んだのは、たっぷりと詰められた豆きんとんだった。漉したた豆を甘く煮詰めたところへ、大振りな豆粒が混じったとろとろの豆きんとんが詰まっている。
「兄ぃ、俺ぁ、こんなに甘くて美味い豆を食ったことがないよ」
捨吉が笑顔を末松に向けた。
「そうだろぅ、えっ。美味ぇだろう。これからはお前ぇに、こんな美味ぇもんをたんと食わせてやるからな」
「本当かい、兄ぃ」
捨吉はますます笑顔になった。その笑顔をゆっくりとほどくようにして末松に、
「でも兄ぃ……。聞きたくて聞けなかったんだけれど」
笑顔のなかに悲しくひきつった表情を見せて、
「俺たちのお父っつぁんは、兄ぃの背中になかったけれど、どこへ行っちまったんだい」
言いにくそうに尋ねた。そうだ。吉原遊郭の柳の樹の根本に置いたまま、無くなっていた張り子の老人形だ。まさか、無くしたとは、それも吉原でとは言いにくい。
末松はから元気に立ち上がってみせた。
「あんな辛気くせぇ稼業はやめだ」
「やめって、親孝行をかい。どうすんだい、兄ぃ」
「俺ぁなぁ、でっけえ仕事をすんのよ。江戸中がひっくりけぇってたまげるような、でっけぇ仕事をな。まぁ任せておけ、捨吉っ」
それは盗人の一味に加わって、駿河屋を襲うことだろうか。
末松は、和泉橋から少し離れて柳原の土手から神田川の流れを眺めて考えてみた。
分からない。水面がきらきらと光る。柳原河岸に舟が行き交う。空を見上げてみた。青い空だった。分からない。
「でっけぇこと、でっけぇことだ」
口に出して言ってみたが、やはり分からなかった。
胸がぎゅっと締めつけられるような気がした。
我慢がならなかった。川を眺めても、空を眺めても、お美津の顔ばかりが思い出された。
張り子の老人形を背負って江戸市中を流し歩き、わずかばかりの銭をもらっては、この柳原の土手の掘っ立て小屋で、つつましく捨吉の面倒をみながらその日を送る。
それで良かった。良かったはずだった。
良かったのか。気がつかずにいただけではないのか。
「このまま生涯を過ごして俺が背負っていた老人形みてぇにいつしか老いぼれていくだけ。それで良いのか。捨吉もあのままで良いのか。俺ぁいってぇどうなるんだ」
分からなかった。無性にお美津の顔が見たくなった。
「こんな身なりじゃ行けやしねぇ」
帯にたばさんだ巾着を開いた。六朱の他に四文銭がじゃらりとある。
柳原の土手の対岸には古手屋が立ち並んでいる。古着屋のことである。
古着や古道具を売買する店で、江戸庶民はこうした古手屋に、季節が過ぎた衣装を売り、また季節に合わせた衣装を買いもして、四季の移ろいに身なりを合わせたのである。
家に春夏秋冬の着物や、家財道具までを置くのは、大店の主人一家か、分限者か。
少なくとも庶民ではあり得ないことだ。末松は土手を登って和泉橋を渡り、対岸の佐久間町へ向かった。万屋という古手屋に飛び込んだ。
「春の衣装をもらいてぇんだ。羽織も足袋も草履か雪駄も頼みてぇ」
万屋の主人は怪訝そうな顔で末松を見た。末松は肩当て、すなわち継ぎ布のあたった、それも縞の平袖という冬のどてらの大層なぼろ着をまとっている。帯とて拾い物らしい夏物をしめている。何より髪が髷もなくぼさぼさである。
「お前ぃさん、お銭(ぜぜ)はありなさるのかぃ」
末松は両手に二朱金三枚とありったけの四文銭を取り出してみせた。
「これだけある。足りねぇかい」
「や、それだけあればご立派な春物が取りそろえられますでございますよ」
万屋の主人は怪訝な顔から、途端に満面の笑みに表情を変えて、末松に答えた。
壺菫色の襦袢、薄茶の唐桟留の小紋の小袖は、木綿織りながら糸が細く絹物の光沢がある。肌触りも良い。そこに濃茶の羽織と、紺地に青海波の帯を合わせた。
茶の足袋、濃茶の鼻緒の草履が用意された。
「大層お似合いでございます」
万屋の主人は、愛想笑いを崩さなかった。
「お客様、湯屋へおいでなさいませ。垢まみれでは、せっかくの着物が栄えませぬ。それからご注進ながら、その頭はいけません。髪結い床でそのぅ、さっぱりとね」
言われて、末松は金銭を支払うと、神田相生町の湯屋へ行った。蒸し風呂で汗を流し、垢をすっかりと落とした。
同じく神田相生町に「海老床」と看板のかかっている髪結い床へ入った。
海老床の主人は、末松の伸び放題のぼさぼさの長髪に驚き、しかしさっぱりと身なりの整った衣装姿にも驚き、
「お客様、どうなすったんで。見たところ大店の若旦那らしいが、吉原通いが過ぎたのを咎められて、お店の内蔵へでも半年余りも閉じ込められておいでなすったってぇ風情と見えやすぜ」
「へへ、まぁそんなところだ。なぁ髪と髭をさっぱり、髷をしっかりと結っておくんな」
末松はすっかり大店の若旦那気取りで海老床の主人に告げた。